6月15日

ひい孫に 言葉の増えて 走り梅雨   サダ子

祖母が遺した句。6月15日は、その「サダ子ばあちゃん」命日。

2年前の4月末に長崎の義父が急逝し、6月13日、土曜日が49日法要。その翌日の深夜、祖母の入院先から電話があり、家内と病院に走りながら、農園で就寝中の両親、近くに住む妹に電話をかける。

病室に着くと、残された時間が僅かしかないことを聞かされ、家内は3人の子供を迎えに自宅へ引き返し、病院の駐車場で家内と会った妹も子供迎えに慌てて自宅へ戻る。両親は、約30キロ離れた農園から車を飛ばす。

病室で祖母と久しぶりに二人きりになる。

最初に入院した時は3人の子供も小学生で、洗濯物を受け取りに仕事が終わって、頻繁に足を運んだが、施設と病院を行ったり来たり、するようになる頃から少し足が遠くなった。

子供の学年も上がり、毎日の仕事に加えて、経験したことがない忙しさに、出来ない理由をつくるには事欠かなかったが、最後は自分が一番後悔することは覚悟していた。

小さくなった祖母の手を握り、今まで人生で経験したことがない、人の命の炎が消えていく様子に立ち会うことになる。

用意していた感謝の言葉もなく、祖母を静かに見届けながら口から出た言葉は「おばあちゃん、ごめんね」だった。

皆が急いで病院へ走る、日付がかわる頃、二人きりの病室で、祖母は静かに息をひきとった。まさか私が一人で最後を看取るとは考えたこともなく。

「家族葬で行う」ということは、早くから両親が決めていたので、家族が皆で協力し、水曜日の葬儀が滞りなく終えられるよう、農園の日常を進めながら段取りをする。

共に働く仲間にも、日頃より負担をかけるようになるので、内心、不安で一杯だったが淡々と指示をしながら、家族揃って、穏やかな気持ちで、祖母の最後の「祭り」をお仕えできるよう、いつもより多めの仕事をこなす。

蒸し暑い梅雨時期だったが、日常の仕事には大幅な遅れなく、3日間を終えることが出来た。

長い入院中「家に帰りたい」と祖母が常々話していたが、叶えてあげることができず、50日祭まで自宅で遺骨を預かることになり、斎場で飾られていた生花をアレンジしてもらい、遺骨と共に神前に供えた。

「無事、終わりました」と神前に手をあせた時、ユリのつぼみが「ポン」と音を立てて開き、3人の子供と共に神前で手をあわせると小さなつぼみが「ピン。ピン」と小さな音を立てて2つ開いた。

今まで以上に祖母のことを身近に感じた。

この年のはじめ頃から様々な問題を抱え、毎日の営みをこなす事だけで精一杯の状況で、義父の急逝も重なり、心が折れそうな日々を送っていた。

入院中の祖母も日に日に衰弱していくのを目の当りにしながら、ふと「心を神に向ける習慣を取り戻そう」という思いに至り、義父の49日の数日前、その思いと願いを立てた日を太秦教会と島原教会に電話にてお届けした。

その願いを立てた日が、どういうお取り計らいかわからないが、祖母の最後の「祭り」を終えた翌日、6月18日。木曜日。

あれから2年。6月15日。木曜日。信じる心を見失わないよう、祖母が生前使った拝詞集と共に、静かに心を神に向けた。

あだちまさし