六さん 8月22日しんあい農園日記


長生炭坑水没事故の真相を(事故の模様と、働いていた日本人と外国人労働者の関係)知りたくて13年前、約一年を費やして没頭して調べた。昭和17年2月3日の朝6時、海底炭坑坑道の天井からたくさんの水が出はじめて、その現場と事務所の連絡用電話を設置に行ったHさんをさがしあてた。老夫婦ふたりは、当時の炭坑住宅でひっそりと暮らしておられた。若いころは日本刀をもって喧嘩をしていたというHさんは訪問する度に「あんたに話すことはなんもない。帰れ!」と追い返された。けれどもしつこく通い「いろいろな噂があるけれど、ほ んとうのことが知りたい」と頼んだ「あがれ」とひと部屋しかないところに上がらされた。ばあちゃんは脳溢血で下半身に麻痺があり、小便を垂れ流しておられたので畳まで臭った「飲めや」と一杯のお茶がでた。コップは汚れていた。いただいたらHさんの表情がゆるんだ。そのときから当時の炭坑の様子をどんどん聞かせていただける関係になった。毎日通ううちに肉親のような気持ちになり、最後は興産中央病院で亡くなられるまで肉親として付き添った。葬儀にはじめて長 男が帰ってきた「なにか形見に要るものがあればなんでも持っていけや」と言うので、Hさんが、鉱業主の頼尊さんからいただいたと自慢していたピッケルをさげて帰った。そのピッケルは農園にいまある。

慶尚院は福岡県穂波町にある。ご住職のチェさんは豊臣時代から近代まで、日本で亡くなった同胞を弔う寺としてここにおられる。物故者とよんでおられる同胞の名簿が山のようにあり、それがご本尊である。もちろん長生炭坑殉難者130名の朝鮮人名簿もここにある。単なる興味本位で訪れる日本人と見られていた。けれど何度も通って名簿を拝見しているとき、当時高校生だった長男(正志)も 連れていったことがある。その日奥さまが「夕食を食べていきなさい」とはじめてご自宅に案内してくださった「あなたは信用します」と申されてキムチの食事をいただいた。

先日、はじめておじゃまをさせていただき、大酒をいただいて数々の失礼を重ねたと思っている黄正吉先生様から、もったいないほどの達筆でお礼状を頂戴した。弟の栄作さんから「兄との酒をどうぞ楽しんでください」と背中を押していただき、その言葉どうり、なにも繕わずに「地」のわたしで交流させていただいた。そのスタイルしかわたしにはできないし、これからもそうしていきたいと思った。

03/08/22(金) 20:57 足立 進(JAG07563)

 


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