50年、そして、これから

先ほど、家内が怪しげな「カツラ」を持参し、ソソクサと出かけて行った。

今日は「西岐波サッカークラブ創立50周年」の記念行事。13時から卒団生やクラブに携わった育成者のフットサル交流会。17時から記念式典及び懇親会。その会の余興で、次男の同期卒団した母親たちで怪しいカツラをかぶり、怪しいダンスで会場を盛り上げるらしい。

長男が小学1年生でクラブに入団し、次男が卒団するまでクラブに10年間お世話になった。子供たちはクラブ員として、サッカーを通じ「大きな心」を育んで頂き、私たち夫婦は育成者として携わるなか、暖かい指導者のもとサッカーに打ち込む子供たちの姿から感動を頂き、子供との関わり方の多くを学ばせて頂いた。

仕事柄、日曜日の家庭サービスをする余裕もなく、二人の息子はサッカーにのめり込んだ。子供たちが熱を上げれば上げるほど「ユウトの父さん」「ショウタの母さん」という具合で、子育て仲間、共育ち仲間が劇的に増えた。長崎県出身の家内、一日の時間、殆どを農園で過ごす私にとっても、クラブが50年続いてきた恩恵を受け、多くの方との「良縁」をいただいたことに心から感謝している。

近年、勝負にこだわり、校区の枠を超えサッカー技術を専門的に指導する「クラブチーム」が増える中、西岐波で50年続いてきた「スポーツ少年団」の地域に深く広く伸びる「根」の人間関係を肌で感じることを出来たことを幸せに感じている。

そのクラブを1968年に発足し、50年間、多くのクラブ員、指導者と育成者を育てて下さったのは「古谷国光さん」。77歳。クラブの父でもあり、私の同級生の父親でもある。

私の小学生時代、サッカー指導を受けていない子供も、国光さんを知らない人はいなかったように思う。多くの子供たちに「大きな声」で挨拶して歩く姿は「西岐波っ子」の記憶に深く刻まれている。

クラブは、1968年「サッカースポーツ教室」として発足。1970年に文部省が主唱、その普及のために設けられていた地域スポーツ少年団に加入し、同時に保護者会である「育成会」を組織、1972年、第一回「西岐波近郷招待サッカー大会」を開催した。

近年、各クラブで恒例行事になっている「招待大会」だが、当時、宇部市内にサッカーチームはなく、県下のチームに呼びかけ交歓大会として県内で初めて開催。「子供たちに試合を通じて経験を積ませたい」と強く願った国光さんや育成者の熱い心と行動力で実現し、大会を通じて、披露された練磨された諸チームの技術、プレーは、宇部市のサッカー振興と底辺の拡大に多大な貢献をすることとなった。

1978年、日本サッカー協会が本格的にサッカースポーツの底辺拡大に動き出し、少年サッカーの普及に力を入れ、コカコーラ後援のもと、協会公認「さわやかサッカー教室」を全国で展開する。協会はセルジオ越後氏を指導者に据え、セルジオ氏が直接指導した少年少女は全国北から南まで50万人を超えた。

この教室は宇部市でも開催され、中心になって活動した国光さんがセルジオ氏から受けた「リスペクト精神」はクラブ員に、今も暖かく伝えられている。
野球ブームの全盛期、「キャプテン翼」の原作者の高橋氏が、漫画家を志し、テーマを模索する中、高校3年時、1978年のアルゼンチンワールドカップでのトップレベルのプレーに感動したことから、従来の「スポ根漫画」とは違う視点での「キャプテン翼」が1981年に連載がスタートする。国内リーグもなく、日本サッカーが大きく世界と距離があった冬の時代に、大空翼の「ボールは友達」というフレーズは私たちに夢と希望を与え、大きなブームになり、加速的に少年サッカーが普及する原動力となる。

西岐波サッカークラブ50周年を機に国光さんは現場を離れる。後任を受け継ぐのは福田指導部長。国光さんと共に歩み、30年間クラブの伝統を築き、守ってこられた指導部長。クラブの第2期制卒団生でもある。福田さんの脇を固めるコーチ陣も、クラブ卒団生で、部員時代、国光さんの薫陶を受け、指導者のあるべき姿を学ばれた。

国光さんは常々「コーチはクラブ出身者から」と口にされた。理由を問うと「ファミリーだから」と何となく理解できるような、理解できないような熱い返答が返ってくる。
クラブには厳しい規律や厳格な指導はないが、50年間、栄枯盛衰を繰り返し、言葉には表せない成功と挫折を経験した国光さんの言葉は常に重かった。
勝負にこだわり、地域の枠を超え専門的な指導が受けられるクラブチームが増える中、「手弁当」でボランティア的指導時間を割かれる西岐波クラブに卒団生が指導者として帰ってくる気持ちは、サッカー経験のない私にも少し理解できるような気がする。
西岐波で育ち、国光さんとサッカーを通じ、心を通い合わせた部員の「育てられた」という自覚が、「育てよう」という働きを生み出していくのだろうと、私は勝手に想像している。

クラブには「大きな心を育てよう」と、クラブ員の心得として「5つ」のモットーがある。

「はい」       素直な心
「すみません」    反省の心
「ありがとう」     感謝の心
「おかげさまです」  謙虚な心
「私がします」    奉仕の心

今、振り返ってみると、ありきたりの使い古されたフレーズだが、親子共々、国光さんから暖かい言葉かけを頂いた「魂」は、ここに裏づけされているように感じる。
50周年を一区切りにし、クラブはこれからも前進していくことだろう。それは間違いないだろう。
国光さんの大きな右手と固い握手をし、その肌のぬくもりと「熱い想い」を感じた私の息子たちが子供を授かり、孫を迎える時、クラブは100周年を迎えることになる。
50年前、国光さんが西岐波に落とした「種」が大きく成長し、たくさんの実をつけ、日常生活では目に触れることはないが深くふかく張った「良樹細根」は今後も枯れることはないだろう。
50年後の100周年。息子世代は60代。

国光さんの熱い言葉を受け「大きな心」を育んでもらった卒団生が「魂」を受け継いでくれることを切に願う。

あだちまさし