月別アーカイブ: 2013年8月

8月元気におわり

昨夜は落雷の豪雨。県や市からの防災メールが次々に着信。川もゴウゴウと音をあげはじめ水位が気になる。停電しても動ける用意を布団のそばに置いて朝をむかえた。
6時までに支度を整えて萩に向けてスタート。雨あしが強いので走る車も少なかった。長門から美祢に山口と大雨警報地域を走り終えた。
昼ごはんを済ませて短い仮眠。雨があがったので外の作業がはかどった。
猛暑の8月を元気に乗りきることができた。9月の写真アップもできた。

加奈ちゃんの訂正

■加奈ちゃんのパン屋さん。宇部空港で店開きを先日の日記で10月1日とご案内しましたが、わたしの間違いで9月1日午前10時からです。訂正してお詫び申し上げます。

5時半から1時間草刈りをした。シャワーで汗を流しているときから雨になった。
今村さんの畑に、種をまいてもいないのに重量当てクイズによく使われる巨大なカボチャができた。わたしが抱えてやっと持ち上がるから30から40キロの重さはある。美容室の糸賀社長に「秋のオブジェで使うかね。捨て場に困ろうから時期をみて回収するが」と写真添付で尋ねたら「ありがとう」の返事。今朝、本店のガレージに届けておいた。
配達先の湯田花園でカランコエの鉢をいただいた。水を頻繁にやらなくてよいと聞いて、日曜日に母の部屋に飾ろうと決めた。
防府で雨具が役にたたない滝のような豪雨に遭い下着まで濡れた。車内でパンツ一枚になり、除湿と暖房を入れて南陽市まで移動。
豪雨のなかいつもの時間どおりに配達ができた。
加奈ちゃん。パンの販売を拡げるアイデアを何人かの方にお願いしていたら、松原酒店(ホタテマン)から「毎月24日の北向地蔵さんが了解してくれた」とメールが届いた。豪雨の徳山を移動しながら加奈ちゃんとホタテマンに連絡をとりカタチが整った。松原さんありがとうございます。
明日は早朝から萩向けになる。また豪雨も覚悟。

ふく福音頭

下関の山口トヨタにオイル交換をきのうお願いした。正午までに終われば午後の配達に影響はない。少し早めに農園をスタートした。
県道に出るまえの田んぼに昨夜イノシンが入り稲が無惨に倒されていた。台風に伴う雨にお百姓は心配なときにイノシンは辛かろう。
オイル交換を待つあいだ朝刊に目をおとした「美祢の高見さん(ふく福音頭)作詞」の記事が目にとまった。月曜日のお客さま、高見亨さん(79歳)が顔写真入りで紹介されていた。
寡黙なじいちゃん。けれども地域では「宴会では踊るし歌うし!」と人気者らしい。
母ちゃんに叱られながら黙々と百姓をやり、心のなかでは
此処はカルスト秋吉台 山は白銀美祢の華 黄金かついで福が舞う(中略)此処は海峡下関 上り下りの栄え橋 たどる潮路は竜宮へ 鯛やひらめと福が舞う(後略)
下関のピアニスト加藤さとるさんが曲をつけ、歌手の浜崎むつみさん(わたしは知らん)主宰の音楽教室発表会で初披露されたらしい。来週の月曜日に高見のじいちゃんにサインをせがもうか。めざせ紅白!

加奈ちゃんのパン

10月1日(日曜日)宇部空港二階出発ロビーで加奈ちゃんパン屋さんが出店します。(10時から16時)以下彼女からメールを転載します。お時間ありましたらお立ち寄りください。お仲間にもご案内ください。

オススメは、
・ヴァン・ド・ルヴァン

無農薬ブルーベリーからおこした酵母で、赤ワインのみで生地を捏ねてパンを作ります。中にはクルミやドライフルーツがたっぷりと入り、薄くスライスして食べるととても美味しいです。

・豆乳クリームパン

豆乳で作った生地に、足立さんの卵と豆乳のみで作ったカスタードがたっぷり入っています。
豆乳の優しい甘さが美味しいです!

・ベジカレーパン

大豆を使った動物性不使用のカレーが入った焼きカレーパンです。ルウは使用せず、スパイスで作るカレーなのであっさりとしています。

漫画「はだしのゲン」がなぜか話題になる。わたしは前に全巻読んだ。その記憶は、被爆の惨状と天皇に戦争責任があるかのような記述が混在していた。そこがいま論点にならないで幕がおろされる歯切れの悪さを感じる。
定期検診に配達を済ませて行った。久しぶりに主治医の「梅ちゃん先生」ショートカット。血圧は130・70でよかった。

初サンマは脂がない

きのう初サンマは焼いた。けれどもこの時期のように脂がおちなかった。食べても脂が少なく期待は外れた。
暑い時期は床にタオルケットを敷いて、腹にタオルケットをかけて寝ていたが、昨夜は敷き布団を敷いてタオルケットをかけて寝た。夜中に寒くて目がさめかけ布団をかぶって寝た。涼しい夜を過ごして食欲がおちていたハッピーの食欲が回復した。
火曜日の山口市。気温は33度まであがりきびしい残暑。
10年ちかくお届けの老夫婦は、敷地内に長男家族の住まいがある。敷地内に2軒の家。老夫婦は長男の家に食事と風呂に通い「息子がよくしてくれる」と自慢だった。最近、老夫婦の住まいに風呂と台所が増築された。きょう「見るかね」と最新式のお風呂をみせてくれた。
きょうもアルミ缶満載で農園にもどった。

新サンマで晩酌

昨夜は網戸では冷えそうで戸をしめて寝た。月曜日のコースは少し外れるが、美祢市の黄さん宅に立ち寄った。戦後、日本の復興は隣の朝鮮半島が3年にわたり戦場になり、その連合国の兵站(軍用品の補給)を日本が担った軍事特需で再建できた。つまり、あの朝鮮戦争は、韓国・朝鮮にとっておおきな不幸であっても、日本にとっては「よかった」とわたしは認識しており、その間違いを気づかせていただいたお礼の言葉を伝えた。互いの難儀が共感できるところが友好スタート。
月曜日の配達が全部終わりの帰り道。右折の軽四と直進の普通車が交差点で衝突した。軽四は逆さまになり激しく回転して止まった。車の損傷は大きいが双方たいした怪我はないようすに安堵した。わたしは、昨年末に凍結で自損事故を起こして廃車になった。はじめて事故を体験した。予定がすべて白紙になり、明日からの配達をどうするか。回収したタマゴをどう処理するかなど慌ただしい1日を過ごした。とにかく安全運転をしなければならないと再認識ができた。
新サンマを一匹買って帰った。今夜の晩酌が楽しみ。

念願の大阪屋

母の「素麺が食べたい」その約束の朝は豪雨。昨夜から家内が農園に泊まり、干しエビや椎茸でダシをとり牛肉をやわらかく煮たり、つぼ鯛を焼いたり。桃にブドウなどたくさん朝から用意をしてくれた。8時に家内を施設におろし、わたしは山口市内の配達。9時すぎに母と合流したら全部食べて上機嫌。天皇陛下と電話で話した内容を教えてくれた。
「少年H」を観た。あの戦争を知らないわたしに空襲がリアルに伝わった。廃墟から立ち上がり、いまの繁栄の基を築いた先輩たちに思いをはせることができた。予告編で「永遠の0」が紹介された。読んで感動したから映画はやめようとおもっていたがなかなか面白そう。
わたしのラーメン最高峰は子供のころから新天町「大阪屋」チャーシューと餃子にビールはわたし。家内は焼き飯。家内は食欲がないようで、わたしがほぼ全部を食べた。これで夏バテ解放の実感。
2時半に農園にもどり5時まで川土手の草刈りを完璧におわり清々しい。

歴史を考えた

長靴と雨具でスタート。朝7時の萩から長門は速度50キロでも視界が悪いほど豪雨だった。
美祢市の黄正吉さんから朝鮮戦争を聞いた。戦後疲弊した日本はあの戦争特需で経済復興した。加えるならばナザレ園の日本女性。そのぐらいのわたしの認識だった。
黄さんが一番わたしに言いたかったことは。あのソ連と中国に対してアメリカを先頭に連合国が朝鮮半島を戦場にした(朝鮮の動乱では決してない)朝鮮と韓国あわせて400万人が亡くなった。多くの若者や優秀な人材を失い韓国の復興は困難を極めた。
おっしゃることはよく理解ができた。韓国や朝鮮の傷痕もわからなければ互いの理解はうまれない。
午後からセミナーパーク開催「長州藩と会津藩」を聴講に行った。2名の聴講で申し込みしたので糸賀社長をお誘いした。講師は山口県地方史学会会長の小山先生(毛利博物館顧問)大河ドラマで長州が会津に悲劇をうみだしたかのように現されているが、徳川幕府を倒し、天皇制に基づく統一国会制定の戦争であって薩長両藩による私怨戦争ではない。このストーリーで展開された。奥羽鎮撫総監督の世良修蔵がドラマのなかでは悪役だが、それは間違っているという根拠を挙げて解説された。会場にその関係者がおられ「ドラマの無念を晴らしていただきありがとうございます」と声をあげられた。次回は来月7日。
歴史は立場により多面的にみえてしまう。

お湿りは少し

8月のテレビ放送は戦争をテーマに番組が構成され、戦争の恐怖や飢えを知らないわたしには「知りたい」という気持ちがおきる。
日本全土が空襲にみまわれた。焦土のなかでたくさんの国民が犠牲になった。火傷や怪我で身体におおきな傷を受けた人たちに国はなんらの手当てもしていないことをNHKテレビで知った。軍属で負傷されたり命をおとされた方には国が支援をしている。空襲で負傷され、その後の人生を苦しく生きるたちが全国組織をつくり国に陳情を続けているが道のりは遠い。わたしは驚いた。
困っている人が声をあげ、たくさんの署名を集めて国会議員に組織に名を連ねてもらい、省庁にお百度を踏まなければならない現実は間違っている。
まことの政治は、省庁や政治家が困っている人を探し出して、寄り添っていくことではなかろうか。いまの政治家や役人のありようは間違っている。
金曜日は周南。予報ほどの雨ななかったが曇りで夕方の農園は31度。この気温でも涼しく感じた。

吉野さんの胸をかりる木曜日

残暑きびしい木曜日。240キロを9時間で下関から長門までを走り終えた。
ご主人、4センチのポリープが見つかりきょう切除の奥さまは、何事もないことを祈っておられた。先週、ご主人の大量の下血で驚いて転倒したおばあさん。一週間後のきょう痩せて人相が変わっていた。病院と自宅の往復で(下関は坂道が多い)疲れきっておられた。わたしにできることは聴くこと。たくさんの心配を玄関で受けとめた。
木曜日の楽しみは「よしの」一週間わたしを悩ましたニュースや疑問に、うどん店主の胸をかりる。
石川達三の南京攻略。日本軍の蛮行。毎日新聞がスクープしている「日中戦争掃討作戦兵士の手紙」どちらも我が国から発見された中国国民への行為。これを吉野さんどう思うかね。と尋ねた。
毛沢東語録を、僕は高校のとき読んで驚いた「人民は草である。戦闘は草を盾に、草にまぎれてやる」これが中国の戦術。南京でも中国兵士は民間人を殺戮して服を奪い日本兵士に攻撃をくわえた「便衣兵」は国際的に知られている。
住民全体が中国兵士と思わねば、こちらが殺される。だから草を全部根絶やしにしなければならなかった理屈もある。
高校時代のわたさはエロ本を読んでいた「ファニーヒル」という本は覚えているから吉野さんとのレベルに大差はある。

月下美人が咲いた

月下美人ふた鉢に4つのつぼみがふくらみ、早寝が習慣のわたしはこれまで開花を見たことがないので、昨夜は開花を拝んで寝ようと決めた。10時ぐらいからどんどん白い花が開き30分ほどで全部が満開。香りはさほどわからなかった。カメラにおさめることができた。
先日の豪雨で被災した地域のリンゴ園でリンゴ狩りがはじまったとラジオで聞いた。あの日のテレビニュースでは、リンゴの樹が濁流に流され、途方にくれるリンゴ農家が報じられた。わたしはリンゴ園は壊滅の被害と思っていた。少なくともそう思わせる現地中継だったから「じぇじぇじぇ」お気の毒に被災されたリンゴ農家は一軒だけで、つまりほぼすべてのリンゴに影響はなかった。被災地現場の報道は、見る側になにを伝えることが大切かを検討するべきだろう。萩や津和野の地名がたくさん報じられ観光業には影響しただろう。観光地に被害はない。いわゆる風評はマスコミがうみだす。
ついでに。廃墟の南京駅でただ一人座り込み泣く坊主頭の子供の、日本がいかに非道であったかを訴えるあの写真がある。中国がいつも使う手法(報道戦争)で、実は、実際には子供の周囲には大勢の市民がいる。
つまり、災害報道は受けを狙ってそこだけ切り取ってはならない。
水曜日は小野田市。市議会議員選挙は盛り上がりに欠ける。中学時代の友人、中島好人も共産党の看板で再選をめざしている。看板は嫌いでも人物は好きだからなんとなく応援。

ラベルに偽りあり

NHKドキュメンタリー番組「従軍作家たちの戦争」録画を朝方再生した。
芥川賞一回目の受賞は石川達三。戦中、画家に写真家に作家などが国民の心を鼓舞する軍のプロパガンダとして意図する作品を世に出した。
石川達三は、南京攻略戦で戦った兵士から状況を聞き取り「生きている兵隊」を中央公論に寄稿した。それが国家の安寧秩序を乱した罪で禁固4ヶ月。執行猶予三年の罪人となった。内容に日本兵の略奪、強姦、虐殺が表現されていた。発禁本として処分され、それを知る人は石川達三の子供たちぐらいであった。ところが、その発禁本が流出し上海図書館に現存している。
わたしがつくづく歴史の真実は見えにくいと思ったのは、中国が書いた南京ではなく、日本人が書いた南京虐殺。この番組では、現在中国が主張する30万人殺されたという虐殺の数には言及はない。
戦地で亡くなったり、身体に障害を受けた兵士には国からの生活援護があるが、空襲でたいへんな障害を受けた人たちに国はなにも支援はしていない。
東京裁判ではなく、日本人があの戦争を自らの手で裁くことが要るように思えた。
強烈な残暑の山口市で、秋に二人目出産の奥さまが「頑張って」と冷たい栄養ドリンクをくださった。ラベルには「ミナギルDX」飲んだあと「ミナギったら困る」と思ったが、ヘトヘトのヘナヘナで農園に戻った。ラベルに偽りあり

元気に月曜日

長引く残暑に朝から身体がだるい。気合いをこめて5時すぎに外に出た。犬たちを放し、軽トラの荷台にのせた300リットルタンクの水を散水。犬と水で1時間かかり汗をかいた。
配達スタートして毎朝のウォーキング。暑くてもこの歩くことは自分との約束だから手は抜けない。約40分坂道を歩いた。
月曜日の全行程は210キロ。炎天下の運転は楽ではないが、長年のお付き合いでお客さまと「残暑もあと少し、頑張りましょうで」と励ましあう。厚狭のおじいさん「今夜は元気をつけにホルモンを食べに行く。韓国人の店でとても旨い店がある。あんたも来んか」ホルモンで生ビールを呑んだら元気が出るだろう。
さきほど農園にゴール。磯村千代子先生から、先日おうかがいしたお礼の葉書が届いていた「切に、又の出逢ひをまっています」と結ばれていた。
明日の山口市。朝のウォーキングからスタートする。

柿の木が喜んだ日曜日

農園入り口の柿の木。農園をはじめた(13年まえ)ころ地域のおばあさんが「わたしが嫁に来たころから大木だった」と言われた。その柿の木まで暑さと小雨で葉を落としはじめ精彩をなくした。
夜明けを待ち、川にポンプを据えて50メートルのホースで軽トラに積んだ300リットルタンクに3杯、その水を桜並木やカボチャにたっぷり散水。柿の木には30分周囲に水溜まりができるほど散水した。
母の朝食に行った。きのうから足の痛みを言い車椅子。サービス付き高齢者住宅。母の場合は毎月15万円。それでじゅうぶんな介護を受けられる。食堂にはこぎれいに身繕いされ、食事をおえてゆっくり朝刊に目をおとすおばあさんもおられる。母もこの酷暑で自宅では体力がもたないだろう。高齢者住宅で生きる人たちそれぞれに幸せを感じておられるように思える。来週は素麺を朝食にもってくると母に約束。楽しみにしている。気をつけて帰りなさいと声をかけてくれた。
午後から2時間草刈り。夜は涼しくなったので今夜は熟睡できそう。柿の木が見た目にも元気を取り戻した。

元気に土曜日

お盆で休まれた(木曜日コース)下関市「あの米店」が配達を希望された。
3時に起きて6時までキビキビ動いた。鶏もも肉を半額でふたつ(一羽分)を犬に元気をつけようと昨夜煮た。犬たちはおお喜びでペロリと食べた。
萩市の常茂恵旅館から大谷山荘。木曜日の弁天池は観光客の車がいっぱいで水汲みができなかったが、今朝は10リットル待たずにいただいた。美祢市から美東を配達して山口市で土曜日が通常は終わるが、そこから下関市。全行程は250キロ走行で午後2時に農園ゴール。
4時まで草刈りで汗をかいた。

亜熱帯になりました

きのう下関のお客さま。玄関わきに見事に咲き乱れるオレンジ色の花に目をうばわれた。南方の品種でノウゼンカズラと教えていただいた。植えてから数十年経つけれど今年ほど咲いたのは初めて。気候が亜熱帯のようになりカズラは喜んでいるのかも知れませんと。
きょう防府市のお宅にもそのカズラが咲いていた「ノウゼンカズラが元気ですね!」と園芸通のような顔をした。
きのう午後、山口市内に豪雨があったらしい。YAB放送局周辺の狭い地域に激しく降ったそうで、今朝も水溜まりがあった。気温も一時的に7〜8度下がった。ロシアから中国にまたがるアムール河は危機的な増水。人類の営みに自然が警鐘を鳴らしているように感じる。
農園で使う機械類。いまの時期は草刈り機。キャタピラーで戦車のように動くハンマーナイフと一般的な草刈り機。調子が悪くなり農協に修理に出すと思わぬ出費になることもある。最近、不調を感じたら症状をできるだけ正確に相談や質問で尋ねに行く。修理の方はひとりで、この地域全体のあらゆる農機具を引き受けているベテラン。今回は草刈り機の回転が落ちることがある相談に行った。2〜3質問をわたしが受けたあと「燃料タンクからキャブにおくるパイプのフィルターを掃除したら治る」と言われた。
きょう南陽市230キロを走りおえて農園にもどりフィルター清掃をした。
もうバッチリ!

お盆の木曜日230キロ

農園を出てすぐ、県道のやぶに猿が一匹いた。毛並みが悪く怪我か病気で群れから離れたのではないかと思った。
レストラン「うさぎ」はお盆のオードブルで8時まえからスタッフ総出で緊張感。早朝から働いておられる。
数名のお客さまからお菓子やパンに飲み物に果物をたくさん頂戴した。月曜日の美祢市小杉の一番おく、高見のばあちゃんに午後立ち寄った。
じいちゃんは私立病院入院中。ばあちゃんは最近運転に自信がなく免許を返納。おおきな屋敷に猫と暮らす。お盆に来客はない。
佐藤内閣の文部大臣はこの家の出身。美祢の代用教員をふりだしに大阪から静岡と教職でわたり、静岡で衆議院に一回落選したあと当選(うどん・よしの談)「ばあちゃん!もらいもんを置いておくど!食べてください」と声をかけた「それかね、すまんね」と出てこられた。喜んでいただきよかった。
「よしの」は開店から3時間で完売されたよう。ご夫妻心地よいお疲れ。
彦島のYさんが、年のせいで夏バテと顔色がよくない「日本中が酷暑でバテています。わたしも疲れがとれません。疲れは歳のせいではなく暑さのせいですからね」と励ました。
アルミ缶もたくさんいただいた。
配達プラスのことがきょうもたくさんできてありがたし。

西君と愛犬供養

5時に弁当が完成。朝食も済ませて順調に朝のプログラムがすすんでいた。犬3頭の運動と朝ごはん。農園桜並木に200リットル散水を急がなければならない。食器をせわしく拭いていたら目の前を小さな虫が飛んだ、右手で落とせると瞬間思い布巾を離したとき左手から丼がすべった。流しにあたり真っぷたつに割れて床に転がった。その床に鮮血が流れた。左の足に割れた半分が当たったようである。傷は広くはないが深いように思えた。床に座り布巾で10分ほど圧迫したら出血が止まり安堵した。慣れたことでも一瞬の油断が怪我になる。
天気予報のコメントに「灼熱の暑さ」とありこれが最高、最大の表現だろうと感じた。
配達帰りに西君墓前と事故現場にお供えの花を求めた。毎朝、暑かろうとせめてもの水をかける愛犬の墓前にも花を買った。
西君は神式だからお盆はないかも知れないが、世間並にしてやらないと彼のことだからはぶてる。線香も供えておいた。

山口市内はサウナ

「妻と飛んだ特攻機」衝撃的な本があることを知った。
谷藤少尉は中央大学から学徒出陣。東条英機が終戦前に学徒は一年軍隊経験をすれば少尉になれるようにした。谷藤は満州で少年飛行兵の特攻訓練教官になった。少尉なら現地に家族をよべる。新婚の妻朝子と満州で生活をした。8月9日からソ連が満州に侵攻。すでに関東軍は南方に主力は移動。在留邦人はホロンバエル草原をさまよう。15日玉音放送で武装解除。逃げまどう日本人の集団を戦車はキャタピラーで殺戮した。谷藤少尉は丸腰の訓練機が11機残っている。それで戦車に特攻を仲間と決めた。19日特攻の日。白いワンピース姿の朝子が谷藤少尉の機に乗り込んだ。11台の戦車が捨て身の特攻で破壊されソ連軍の士気は鈍った。
中尾下関市長が唐戸魚市場常務の時代。当時の松村専務に「満州の夕陽はええど」と背中を押されてホロンバエル大草原を、蒙古族のパオに泊まり旅をした。コンクリートのトーチカが戦車に踏まれて崩れている光景がたくさんあった。朝子夫人24歳。生きておればソ連兵に辱しめを受ける。サイパンやテニアンの島々で自決された女性と同様。ここ満州では夫の特攻に同乗するしかなかった。
酷暑で有名になりつつある山口市内を140キロ走った。1時に37度とラジオが知らせた。農園に戻って暑さのちがいがよくわかる。

桜並木が枯れそう

夜明けまえ、300リットルのタンク約半分の水を井戸から汲み上げて、川土手の桜並木に散水を続けている。この炎天下で葉が黄色くなり弱っていると思う。今度の日曜日まで雨がなければ、川にエンジンポンプを据えて半日ぐらい水を撒いてやろう。
7日の毎日新聞一面に「慰安所従業員が日記」の見出しで、慰安所従業員の克明な日記が韓国で発見され韓国の研究グループが読み解いているもののコピーを京都大学と神戸大学教授が日本語訳の作成を進めていると報じた。当時を生きた人が存命中。そのたった60年数年前のことがわからない不思議さが解明されることを期待している。

禁煙5年記念日

母の朝食に間に合った。いただいた北海道のメロンをカットして冷やして持参した。食後に「おいしい」を連発して完食。
9時に磯村千代子先生を自宅に訪ねた。88歳とご高齢でも浜辺の散歩と俳句は続けておられる「先生!終わりよければ、すべてよし」と励ました。お嬢さんを若くして亡くされ、ご主人も早く亡くされ悲しいことをたくさん乗り越えた。10月、県立美術館で増上寺所蔵の五百羅漢が西日本でははじめて公開される。時期をみて先生と観賞する約束をして別れた。
お昼、懐かしい方が二組農園に来てくださった。短時間でも会話に花がさいた。1時から90分草刈り。サウナより大量の汗を出した。
きょうは禁煙5年記念日。毎日セブンイレブンでドリップコーヒーを買う。ホットコーヒーをおいしく飲むにはタバコが一番の相棒。しかし1本吸ったら、何年禁煙していてもすぐ愛煙生活に戻る。前回も5年禁煙が1本吸ったとたんに崩れた。生涯禁煙を貫こうとは思っていないが、もう少しは続きそうな気がする。

朝まで生テレビ

昨夜は農園も熱帯夜。何度も暑苦しく目がさめた。深夜にシャツを一度着替えた。眠ることはあきらめて「朝まで生テレビ」を3時から終了までみた。多彩な論客がさきの戦争から尖閣諸島に竹島まで持論を唱えおもしろかった。なかでも「そうなのか」と府に落ちたことは極東軍事裁判(東京裁判)。わたしは、あれは戦勝国が敗戦国を裁判の名のもとで一方的に裁いた正式な裁判ではないと思っていた。しかし、天皇をいかに守るかという連合国側の悩みもあり(天皇に罪を求めたら日本国は統治困難)A級戦犯に戦争責任を委ねた。戦犯にさせられた人、自分が裁かれることで陛下に責任が及ばないことに納得され潔く罪と認めた。この戦争責任を処理した裁判を経たうえでサンフランシスコ講和条約が締結され、日本国の独立が果たされた。東京裁判があってこその日本がある。国際的ルールとはこのような手続きがある。
ずいぶん以前、BS歴史館(テレビ)「それは戦艦ミズーリから始まった」という番組があった。
日本人は8月15日を終戦記念日としているが、世界中の終戦認識は9月2日。15日は陛下の玉音放送はあった。しかし戦艦ミズーリ号甲板において外務大臣 重光葵が降伏文書に署名と押印した9月2日こそが終戦記念日となる。としたならば、日本との不可侵条約を一方的に破棄して満州に侵攻し8月15日以降も日本軍を攻め続けたソ連を、わたしは悪党よばわりしていたが、ソ連にはソ連としての理屈はある。つまり、終戦記念日という日本の歴史観は国際的に通用しない。尖閣諸島や竹島の領有権も日清・日露戦争当時の双方の国の領土についての歴史観がわからないわたしが軽々しく感情的に判断するべきではなかろうと思った。
お昼のニュースで「命にかかわるような暑さ」と報道された。不思議なことは、あれだけ節電を訴えていた報道が、原発再稼働しなくても「冷房を適切に使用してください」と呼びかける。節電とか原発の必要性など凡人には理解できない。

遺言

13日(火曜日)BSプレミアム午後9時から「明日への遺言」が放映される。名古屋空襲で墜落したB29爆撃機から落下傘降下したアメリカ兵を、藤田まこと演じる防衛隊の日本兵(岡田資)が処刑した。戦後の連合国軍事裁判で日本兵は罪を問われ処刑される。裁判展開のストーリーなかで民間人の大量虐殺の爆撃はあきらかな罪ではないかと、軍事裁判で己れが生きる要求ではなく、風上から無差別爆撃をし名古屋を焼き付くし民間人が数多く焼死したアメリカの罪を岡田は毅然と主張した「明日への遺言」は、まさに戦後を生きる我々へ戦争はやってはいけない。平和のありがたさを訴えた岡田の遺言。じっくり平和を考えさせる実話である。以前レンタルCDで深く感動した作品。
南陽市を走りおえて戻った4時まえ、農園の気温は37度。34度の部屋のテーブルに置かれた「ゆうメール便」をぼんやり読んだ。鍵山秀三郎さんを「囲む」読者の集いを「偲ぶ」と読めて慌てた。それはPHP企画で会場は帝国ホテル。会費は安くないし火曜日。鍵山先生を客よせにつかう商売は感心できませんのんた。
先生の「遺言」はお掃除仲間それぞれが、帝国ホテルではなく、お掃除現場でいただいているのです。

矢沢永吉論

下関市内のマンション12階がお届け先。10年ちかく木曜日に通っている。住人以外の駐車場所はないが、少しのスペースを宅配、ゴミ収集、郵便、タクシーとスペースを暗黙の了解で使っていた。ところが2週間前にわたしの駐車は違法だと警笛を鳴らし続ける男がいた。暑いし煩わしいから「どうしたかね」と男に尋ねたら、わたしの停めかたが悪いと言葉が荒かった「わかった。悪かった」と言い残して去ろうとしたら、逆上気味になり「警察を呼ぼう!」と言い出した「どうぞ呼んでください。わたしは忙しいから名刺をおいておきます」と男に名刺を渡して去った。
先週、12階のお客さまにことの顛末を話して、配達の時間に空いている駐車スペースを探していただいた。無用のトラブルはさけたいとお願いした。きょう使用させてもらえる場所を教えていただき安心した。
1月末に納車の車が35000キロ走行になり、下関の山口トヨタでタイヤ交換をした。所要時間は1時間と聞いたので、1時間を捻出するため早く農園をスタートした。
新品タイヤで走り、いつもより10分遅れで木曜日最後の「よしの」に着いた。お互い一週間、本や新聞にテレビをみてためた感想を言い合う楽しい時間。きょうは矢沢永吉論で盛り上がった。おお風呂敷をひろげて、実現にむかう男がよい。トンガって生きる男になろうで!

クレヨンのママ

スナック「クレヨン」のママから暑中見舞のハガキをいただいた。13年以上、一度も客になっていないのに年2回のご挨拶が続いている。わたしが飲みに行く店はクレヨンだけだった。気さくな人柄のママと気があった。宇部の掃除に参加してくれ(掃除は日曜日の早朝)今も常連で参加されていると聞いている。韓国ナザレ園も楽しく同行してくれた。農園を離れて酒を飲むことがむつかしいので、宇部の街に出ることはないけれど、いつか元気な顔を見せに行こうと思う。メールでお礼を申し上げたら、すぐにお返事をいただいた。
維新に活躍した薩摩を財力でささえたのは沖縄であり、沖縄なくして維新はなかった。と沖縄の人がラジオで語った。広義に解釈を委ねたらそうなる。因果関係を風刺した。風が吹けば桶屋が儲かるの式。
歴史認識も解釈をどこまで広げるかのように思えた。
連日の猛暑で夕方はヘロヘロになる。けれども夕方から網戸ごしに風がはいり、夜になると秋の虫たちが賑やかになりはじめた。

マスターズゴルフ

火曜日は定休日のマスターズゴルフに店主がおられた。冷房の効いたお店で冷たいコーヒーをご馳走になった。店主の兄がイギリス滞在のとき遊びに行った。小さい城の門番が昔使っていた住まいを借りていた。数百年変わらぬ家と家具に食器類に驚いた。もっと驚いたのは、つぎはぎの作業着で庭木の剪定をしていた男は使用人ではなく城のオーナーだった。物を大切にして質素に生きるイギリスをみた。
わたしも同じような体験があり話した。ブライダルの「ハラダヤ」原田社長から「我が家で呑もう」とお誘いをいただいたのは10数年前の夏。スーツを着てご自宅をさがしたら店舗裏の物置のような場所。冷房はなく社長はランニングシャツとステテコで「僕が刺身の担当」とタコをひいておられた「最近は雨漏りがします」と笑顔の奥さま。扇風機にあたりながらのステテコ宴会はよい思い出。
店主の河村久仁夫さんとはお掃除がご縁。掃除を口実に全国の掃除大会に参加して前夜の懇親会を朝までやった仲間。最近はお互い歳のせいか真面目になりましたのんた。

あとからわかる物語

汗を拭きながら、水を飲みながら、早朝から月曜日の仕事をおえた。
先日、読み終えた本のタイトルに目がとまり読みはじめた。映画も何度かみると、最初は気がつかなかったシーンに新鮮な感動をすることがある。この小冊子もそうだった。
中越地震のとき村上えり子さんが「長府の尼さんが日清カップラーメンをなんとか、かんとか」と騒がしかった。小月のカップラーメン工場からたくさんの支援があったお世話人が尼さんだった。
平成19年発行の小冊子に、この尼さんが登場していた。映画で高倉健が主演した2・26事件。反乱軍としての最後は銃殺刑。その中に長府出身の青年将校、田中勝(中尉)があった。そのお母さんが長府才川「称名庵」田中円信尼。処刑された我が子を弔うために尼僧となられた。カップラーメンで奔走されたときの年齢はゆうに百歳をこえておられた。えりちゃんと尼僧のストーリーはわからない。
けれども、被災地に食べ物を届けたいと、えりちゃん運転の車で日清製粉工場にかけあいに行った日本を愛する高齢の尼僧がおられたことが今ごろわかり感動した。
あとからわかる物語は胸にしみる。母との思い出もそうである。

抽選にあたった!

山口県セミナーパークで催される講演。以前は先着から受け付けていたが最近は抽選になった。6月、鍵山先生の講演も抽選もれ。しかし今回はヒットした。しかも2名で。
8月24日戊辰戦争と奥州列藩同盟
9月7日
会津藩の降伏と長州に対する怨念
全二回の「長州藩と会津藩」講師は山口県地方史会会長の小山氏。
大河ドラマ「八重の桜」で薩長は会津にとって悪役。しかし、史実はちがうという切り口で話される。日中、日韓の歴史認識のように、日本国内でも立ち位置により視点がかわる面白さを味わいたい。両日とも土曜日の午後だからなんとかなる。歴史の糸賀社長を誘ってみよう。
朝は母に会いに行った。素麺が食べたいと言った。東末(母の妹で兵庫県在住80歳)から揖保の糸が届いているから腹いっぱい食べよう。と言うと「嬉しいね」と笑った。
午後から草刈り。雷雨でもやめなかった。ジリジリ暑い炎天下よりよほど快適。着替えればよい。
今夜の楽しみは「八重の桜」なぜ離縁になったのか。昨夜は録画「天空の城ラピュタ」を楽しんだ。

被災地訪問

合併まえ「むつみ村」現在は萩市にお住まいでお掃除仲間の佐々木仁資(じんすけ)さんを訪ねた。
豪雨の夕方彼と電話がつながった。いつもなら折り返し着信が早いのに半日も経過していたから心配していた。鉄砲水で大正時代から営む酒店に被害があった「食べるもの、水はあるか」と聞いたら「ある。我が家が近所の援助ができている」
彼の住まいを訪ねるのははじめて、そのうえたどり着く道路は被災して一本しかない。先日お掃除代表で松原さんを乗せて往復された岡本拓也さんにその道を教えていただいた。
萩市からかなり走ったところでトラックに野菜を積む人がいたから道を尋ねた。なんと山口市内で「野菜工房」を営む新田さんだった。農園タマゴも毎週大量にお買い上げいただくお客さま。この地域のよい野菜を仕入れるため通っておられる。詳しく案内いただき到着した。長男と奥さまが片付け、仁資さんは酒の配達からすぐに戻られた。
家屋が流れるような被害ではないが、わたしが深刻に感じたのは、行政は見た目の被災地から優先的な復旧対称になる。しかし家々の床には泥があがっている。くわえて高齢者。独居のかたも多いらしい。そこが深刻。
佐々木さんの奥さまは民生委員。豪雨の日、冷蔵庫が道路を流れるようなとき、自宅や店のことより地域のみなさんの世話で1日奔走された。持参したタマゴは奥さまが配ってくださるだろう「また呑もう!」と手を握ってわかれた。
行ってみてわかった。あの交通事情の悪い田舎から萩市の掃除の会をはじめ、各地の掃除に彼は参加されていた。参加するには1日がかりになる。あるいは泊まりになる。仁さんの志のおおきさがわかった訪問になった。
アウシュビッツ収容所を訪れた彼の感想を聞く予定の酒盛りが、いつも下ネタ談義で終わり、いまだに感想を聞いていない。

人の難儀をひきよせねば

人が直面している難儀は、わたしには距離に比例して伝わらない。シリアの内戦で絶望的な生活を強いられている人々の惨状に関わりようもないが、他人事のように報道をながめている。
ところが東北被災地の報道に涙がこぼれたことは何度もあり、わたしができることは精一杯やった。これからも続けなければならないと思う。距離や国境が心を遠ざける。
先日、山口県に甚大な被害をもたらした豪雨。農園から1時間も走った場所が被災した。きょう湯田花園に卵を届けた「お盆に出荷できるよう生産されていた菊が全滅されて心がいたみます」と話された。井上酒店は田万川の青年農家がこだわりでつくる米を精米して販売されていた。その農家4ヘクタールの稲が壊滅し農家から電話があった「食べる米まで流された。精米して送ってくれ」井上さんは4日に米、子供たちの衣料にお菓子を持って奉仕に行かれる。
掃除仲間の佐々木さん宅も被災されている。いろいろ思案のすえ、明日の朝、営業に支障のない数の卵を佐々木さんに届けることにした。さきほど連絡したら喜んだ「地域は独居老人が多いから配ります!」
ここ3日、夜中まで暑くて寝不足。疲れがとれない。今夜はドライにして熟睡しよう。

集団的自衛権

「ひこばえ」という小学生から高校生までの読者投稿欄が産経新聞紙上で週に一回ある。憲法改正賛成論や靖国神社など、総理が掲げる「日本をとりもどす」を後押しする若い世代が意見を述べ、読むのを楽しみにしている。最近、集団的自衛権についてかなり強い賛成意見があった。友人と歩いていたところ、友人が暴漢に襲われたとき、見捨てて逃げるか共に闘うか。
わたしなりに、ずっと考え続けてきた。海上を同盟国アメリカ艦艇に同行していた日本艦艇が、攻撃してくる敵に反撃するのか。
このストーリーは現実的にないと思う。軍事大国アメリカを攻撃できる国はない。あの軍備でとことん反撃されたら国は消滅する。仮に日本艦艇が集団的自衛権を行使して戦闘に加わるとすれば、かえってアメリカ作戦を混乱させるだけではないかと思う。
日野原重明先生(102歳)が、石橋湛山「小国主義」(湛山は大東亜戦争の引き金になった。満州や朝鮮から撤兵せよと迫ったハルノートを受けて戦争回避するべきだと毎日新聞で論じんをはった)を引用され、すべての武器を放棄すれば、軍事的に日本を征服にくる国はない。それを国際世論も許さない。日本は教育に力をそそぎ、人材を世界に輸出するような国を目指すべきだと。
一部野党が現政権を、徴兵制がはじまる。他国を再び侵略する日本になる。と妄想を言う。そんな妄想平和主義ではなく、日野原先生が唱える、今こそ「小日本主義」を。大切な示唆だと思う。
うだるような暑さの木曜日。250キロ走りおえた。