月別アーカイブ: 2015年6月

アルミ缶の回収

今朝も歩いた。歩きながら母との思い出がうかんでくる。
きょうは公務員ボーナスが巷の話題になる。母の身分は、用務員でも国家公務員。今でこそ憧れの公務員かもわからないが、わたしを育てる時代の国家公務員は安月給(母はいつも俸給と言う)。人事院勧告で半年ほど前から昇給(遡及適用)のラジオニュースに喜んだ。日曜日や盆正月の仕事(日直)は、お金を払ってまで同僚から権利を譲ってもらい、わたしは宿直室が遊び場になった。野球の道具は買ってもらえないから図書館の本を読む楽しみは覚えた。
母はわたしを懸命に育ててくれた。
先週の火曜日。昨年ご主人を亡くされたばあちゃん(80歳すぎ)との会話で、ばあちゃんの反応に違和感があった。今朝は長女が来ていた。あの日、ろれつがまわらなくなりタクシーで病院に行ったら入院。会話と若干の機能障害が残る。
午後3時。平川のスーパーマーケットに立ち寄り夕飯と明朝の買い物をしていたら「足立さん」と美人が声をかけた。美祢の黄正吉さん奥さま「市内で入院の義母が食べたいものがありお買い物です」と。正吉ご主人は車で待っておられる。
老いていく親の世話が、育てあげてくれた子供の役割。
わたし夫婦は、それを卒業して届けもの書類の記入の毎日。
アルミ缶の回収。この時期から臭いとハエなどが煩わしい。きょうも飲み残しのビールが車内にこぼれた。この回収で生きる糧を得ることができる施設の人がいるから辛抱できる。農園にもどり車内の掃除。

獣害にあえぐ山あい

きのう夕方、電話番号を登録していない番号が着信。挨拶が九州弁。農園そばの川にハヤ釣りに来た佐賀県の方が、川の濁りや水深を私に尋ねた電話。昨年、まだ夜明け前の農園に佐賀ナンバーのワンボックスが着いて数名降りたが、前日までの雨(川の上流)が降り濁りで釣りにならない落胆ぶりを知った。佐賀県からは片道4時間はかかる「川の様子は教えるから」と私の携帯電話の番号を教えていた。今朝5時前に犬が吠えた。佐賀ナンバーが川土手にとまった。
土曜日の朝、ラジオ体操がおわり10分間(6時40分〜50分)サタディ・エッセイは多彩なゲストの語り口に耳をかたむける。印象深いゲストは過去2回の仲代達矢さん。ご自身が俳優として培われた役者の基本を、俳優志望の若者に伝えるため「無名塾」を主宰されている。
掃除をとおして心を磨こうと「日本を美しくする会」になった、掃除の鍵山先生の生き方と重なる。
もうひとり2回聞いたゲストは、社会学者 古市憲寿(のりとし)30歳ぐらいか。著書の、講談社「誰も戦争を教えてくれなかった」は美祢の黄正吉さんが「読みませんか」と貸してくださり読んだ。私はこの若い社会学者は好きになれない。その考え方ではなく言葉の表現力が幼稚に思える。
例えば、政治家を「おじさん」と呼ぶ。わたしから言わせたら、若い者が人生の先輩に対して敬意の表現が未熟な者としかみえない。
そして今週土曜日のゲストは2回目。解剖学者で東京大学名誉教授の養老孟司先生。数学の藤野先生から「おもしろい先生」と教えていたいた先入観抜きでおもしろい。今週の土曜日が楽しみ。

月曜日。美祢の山あいで鹿の群れが昨夜田んぼを通過した。田は無残な姿になった。
カラスにハト・猿に猪に鹿が山あいに生活圏を拡大。人はたまらないから去って行く。
山口県の消滅予想都市は萩市・長門市に美祢市。

快晴の日曜日

沖縄に着くと空港売店からはじまり、土産物店など、いたるところに沖縄タイムズ社発行「鉄の暴風雨」という沖縄戦写真雑誌が目にとまる。
写真は真実か。なんとなく真実のように感じても、そこには制作者の意図がある(中国が出した日本軍写真はねつ造がたくさんある)「鉄の暴風雨」を読むと、日本軍から住民は自決を強要された。沖縄を日本(ヤマト)からアメリカ軍は解放してくれた。そのような活字と写真で構成されている。
百田尚樹氏の発言がクローズアップされている。百田尚樹氏の沖縄二つの新聞社はつぶれたらよい発言「雑談の中の冗談」という逃げ腰には落胆した。以前に湯田で開催された自民党講演会の講師が百田尚樹氏で拝聴したことがある。あれだけ歯切れよく、日本人の精神を力説できた人が「冗談」とは情けない。主義主張は曲げてはならない。曲げるぐらいの信念ならば講師には向かない。
きょうは紫外線注意の天気予報。朝露もなかったので農園お客さま布団とわたしの布団を朝食前に屋根いっぱいひろげた。
それからトイレと風呂掃除。続いて犬たちの運動と食事。
それらを済ませてからわたしの朝食。母の見舞いがないから日曜日のリズムが変化した。
午前中は山口市内の配達。お昼前にもどりプリン体0の発泡酒2本で昼食しながら昨夜の録画「久本雅美・JUJU」を見た。前から、ふたりとも本物だなぁとファンだった。プロとしての背骨がしっかりしていることが理解できた内容だった。
午後から草刈りに汗をかいた。快晴の日曜日。

母の50日祭

仏式では49日。金光教ではそれが50日祭となり、仏様や霊様が先祖と合祀になる節目。
そのお祭りをどうお仕えしていただくか、祭事のカタチではなく、わたしを先頭に家族の心を揃えてその日をむかえることが喪主としての役目と心得ている。
わたしの家には祀られている先祖がない。母の両親と先祖は直江の墓に仏式で鎮まっておられる。
母が「直江の墓参りに行ってくれんかね」とわたしに頼み、代参を果たした。母はその喜びから体調が崩れはじめた。想像ではあるが、母の魂と母の両親との交わりがあったと思える。わたしは合祀にはならないが、宇部で立派に祀ってもらうから。そのような挨拶ができておれば、わたしも嬉しい。
8月のよき日を選び、農園に一同が揃い母を偲ぶ祭りをお仕えする。
新日本風土記。昨夜は「皇居界隈」だった。江戸から続く日本の品格を感じるよい内容だった。
痛風の痛みは完治しているが、左足の親指はまだ赤いから炎症が治らない。朝のウォーキングは完全復活した。

心配は親子の絆

昨夜から天気予報どおりの豪雨。
金曜日は仕事はしないと昨年の秋に決めて、正志が金曜日の配達コースを走る。山口・防府に周南、その3地域に豪雨警報が出た。車をおりて歩く配達先もあり、きょうの雨のなかでの配達の困難さは容易に想像できる。けれども、この豪雨の中をいつもと同じ仕事をして正志の生きる力になる。
わたしは散髪と買い物とタブレットの操作を教えてもらいたいので正志に「気をつけて」とひと声かけて農園を出た。雨あしが強まるごとに正志を心配した。
母もわたしのことをいつも心配をしてくれていた。
3時前に正志が農園にもどり安心した。

牧さんたちと楽しい夜

きのう(水曜日)朝、農園の橋を渡りおえたとき、前方に茶色(冬は鮮やかな黄色)のテンが一匹路上で、まるでピアノ伴奏で踊るように跳び跳ねていた。エンジンを止めてダンスの観客になった。テンは踊りながら車の近くまで寄ってきて、わたしと視線が合ったとき草むらに走った。
よほど嬉しい出来事があったのだろう。わたしまで嬉しくなった。
牧さんと佐伯さんの嬉しい来園に酒と会話は弾んだ。家内は冷蔵庫と自家製野菜で夕食緊急措置。
牧さんとわたしの会話はいつも近況報告だけ。それ以上はないから考えこむことも議論することもなく笑いだけで何時間でも酒がすすむ。
3時前にいつもどおり起きたのでビデオ観賞。今朝は「ミッション・8(エイト)ミニッツ」娯楽作品の目的を果たした作品だと思った。面白かった。
牧さんたちは朝御飯をすませて6時に鹿児島に発った。これからはじめる工事現場を視察して大阪にとんぼ返り。
わたしは木曜日の仕事を落ち度なく済ませた。農園では井戸のポンプが不調で正志と業者が走りまわっていた。井戸は農園ライフライン。なんとか応急処置ができたらしい。鶏の水とトイレとシャワーはなんとかなりそう。

牧さんが来た!

母の日記を毎朝、1日分読んでいる。
きのう読んだくだりは、母が退職金と貯金の全額を費やして手に入れた小さなわが家。その恩恵によくしながら事業をひろげたわたし。バブル絶頂期。
母の日記を読むと、この家を売り払い、広い自宅をつくろう。そうわたしが切り出した。わたしが三回目の「売ろう」と促したとき、母は、しかたがないとうなずいた記述があった。本意ではないにしろ母の気持ちを斟酌できていなかった。
きのう午後のラジオで、以前宝塚雪組のトップスター 杜けあきさんが言った。
もっとお尻が小さいほうがよい(男役)アゴが小さくならないか。身長が低いなどマイナスに思い込んでいたとき。そうか!変わらないことに悩んでも何も変わらないから悩まないようにしよう。
それは名言だった。一晩それを考えて、水曜日は朝参り、そのあとは今村さんのお宅で話し込むのが楽しみ。
変えられないもの。わたしは母との過去を変えたいものがあると日記を引用して話を切り出した。
今村さんも専修大学野球監督時代の悔いがあることを話された。選手を鍛えるつもりで殴ったこと。
朝から練習をして夕方、キャッチャー候補を10名連れて特訓。今村監督がひとり10本青空に高々とノックを打ち上げる。受ける捕手に「落としたらケツ(尻)バット」と怒鳴る。捕手は受ける神経集中よりケツバットの恐怖が集中の邪魔をする。
試合で相手チームの監督がエラーした選手を殴る。自分のチームを集め「あの選手(殴られた)は同じエラーをする」と告げた。そのとおりになった。殴られる恐怖がエラーになる。
選手を育てることを間違っていた時代があった。
夕方、風呂上がりにビールを飲みながらの日記。牧さんから電話が着信「今どこか」と聞いたら「大阪です」と返事「牧さん来たら飲みたい酒がある」など話していたら階下の犬が吠えるから「お客さんだから切る」切って窓から下を見たら牧君と仲間の佐伯さん。持参のスコッチウイスキー「ロイヤル・サルート」をありがたくいただける。

沖縄戦終結の日

約1週間ぶりに朝の1時間ウォーキングができた。何となく力が入らない毎日から早く切り替えたい。
きょうは、牛島満陸軍中将が摩文仁のガマで割腹自決をされ、沖縄戦が終わったとされる日(終戦がわからず9月まで抗戦した兵士もいた)
約2ヶ月間で民間人と軍属あわせて24万人以上もの犠牲者が出た。
本土復帰直後から金光教遺骨収集奉仕がはじまった。私も参加をさせていただき約20年、毎年2月(ハブの被害が少ない)糸満市摩文仁の山野一帯を歩いた。現在の平和祈念館周辺には当時、地表に数多くのご遺骨が散乱していた。
そのころのわたしは、最近、軍が民間人に自決を強要したと言われるような歴史には関心はなかった。けれども常に沖縄から「日本の犠牲になっている」の声を聞くたび事実はどうなのかと関心がうまれた。
例えば、行き場を失い一家で自決されたとき、生き残った子供がおり、その生活を支えるには軍の強要(命令)で自決した。そのストーリーを描けば補償がある。だからその虚偽証言を元日本兵士がした。
否、強要は事実だったの証言もある。
先日、NHKテレビ番組で「沖縄戦全記録」があった。元陸軍兵士の証言「摩文仁に敗走したころは軍としての指揮系統はなく、兵士は個人で動いていた」
摩文仁は1平方メートルに6トンもの艦砲弾が着弾した。その地獄のなかで指揮系統を失った兵士はひとりの人間として行動したのではないかと思う。住民の命を救う兵士もおれば反対の行為をした兵士もあるだろう。
「あったか」「なかったか」の二者択一ではない、その両者が混在した場面が各地の戦地であった。まさに多面的な場面が展開されているから歴史認識は困難。
櫻井よし子さんの歴史認識。高石ともやさんの視点からの反戦。両方に頷ける私がある。沖縄に心を寄せた1日だった。

NHK総合テレビ。26日の金曜日。午後10時55分からの

ドキュメント72
「ウワサの猫と商店街」

白毛の猫。けれども眉が黒毛で八の字(鍵山先生風)眉毛の末広がり縁起に各地から猫を拝みにくる人たちを72時間、カメラを定点に据えた番組で最高に楽しい内容と思います。
番組のご案内

鍵山先生と高石ともや

昨夜の録画は「高石ともや」
5〜6年前、猿舞座の村崎修二さんから「周東町に呼んだから」と案内をいただき、会場の周東町の公民館に行った。
高石ともや さんを好きな理由は第一が笑顔。山口県の公演は阿東町や山口市内のお寺など。平原綾香とは会場がちがう。
周東町公民館で演奏のお礼は町内のお百姓さんが丹精込めてつくった野菜の山。それを、あの目を細めた満面の笑みで受け取られた。村崎修二さんが楽屋にわたしを連れて行きご紹介いただき名刺を交わした。高石ともやさんの腕時計とわたしの時計が同じだった。
2〜3日過ぎたころ、わたしに高石さんから直筆の葉書が届いた(宵々山のカラー葉書)
ホノルルを高齢で走り、石垣島トライアスロン優勝、アメリカ横断マラソンなど、我々世代の先頭を走り続けている方からの葉書に驚いた。
昨夜の録画を今朝見た。高石ともやさんは「文明」と「文化」をわけておられた。その影響は永六輔さん。永さんは東北震災直後にパーキンソン病の病をおして被災地の障害者施設をめぐり支援計画をつくられ実行された。
このコンサートを企画した村崎修二さんの師匠は民俗学の宮本常一。
マスコミで自らの歌が売れるより、日本中を歩いて心の交流をする。それが「文明」と「文化」のちがいと理解できた。だからわたしにも直筆の葉書が書ける。
その身近な大師匠こそが鍵山先生。無報酬で全国を休みなく歩かれ、掃除を一緒にされながら「生き方」を説かれる。その会場でご縁がうまれた子供から高齢者まで激励の葉書が先生から届く。
大量生産、大量消費の文明に対して、親を敬い。質素倹約に勤勉を美徳とする日本の文化を次の世にのこす働きをされている共通な願いを感じた。

母の日記が出てきた

昨夜はビデオ映画。

父親は7歳ぐらいの知能。その父親の子を出産して逃げた母は行きずりのホームレス。父親はコーヒー店でわずかなアルバイト収入を得て愛娘との生活に懸命。この父親に育児は無理だから里親をさがす社会秩序が動きはじめた。その秩序に懸命に親子はあらがい施設から愛娘を取り戻そうとする父親。ラストシーンは、この親子の生き方に自身の育児や生き方を周囲の者の家族愛が問われた。録画していた映画「I am Sam アイ・アム・サム」家族の愛を考えさせられるよい作品だった。
朝はゆっくりコーヒーと新聞読み。
日韓親善協会中央会会長 河村建夫代議士の「日韓50年 関係改善の道筋」というコラム(毎日新聞19日)を見つけた。首脳会談開催あと一歩と結ばれていた。
日曜日の朝は8時に山口市内の納品。8時半には母に面会を7年続け、今朝は面会のない最初の日曜日。昨夜から日ごろはできない時間をおくった。
父の日だから仕事はしなくてよいから。と正志夫婦が昼ごはん代の金一封をくれた。その言葉に従うほうがよいと判断して映画を探した。樋口可南子「愛を積むひと」を家内と見に行き、痛風に遠慮しながら昼ごはんに冷えた生ビールを添えた。
断片的に書かれた母の日記が出てきた。日常の母の視点。そこには漫然と生きておらなかった母がいた。そして末尾には、その日の一句が必ず添えられていた。
姿をけしても、母とは日記であえる。

小川洋子おもしろい

土曜日の配達。楽しみは8時のニュースが終わり「ラジオ文芸館」山口市内から番組が始まり、萩市内で終わった。今朝は小川洋子「イービの叶わぬ望み」作者の描写力で、作品の世界がわたしの心にひろがった。
昨夜も熟睡できなかった。葬儀からずっと気になりはじめた出来事を考えるから。それが昨夜、なんとなく府に落ちた。
それは、直江の墓参りを先月末、母の「参ってくれ」の頼みに応えて果たした。満面の笑みで墓参の写真を見てくれ、それから体調が下降線になった。
直江の墓には母の両親と長男の安吉さんが祀られている。
母はまったく縁がなかった宇部に縁がうまれ、約70年ちかく96歳まで生きて、7年も施設と病院生活をしたから、ぼつぼつ楽にならんか。そう直江のご先祖が母に声をかけた。
つまり親はいつまでも親であり、子供であるわたしの母を楽にさせたいと願い。母もどこかでその願いを受けとめて「墓参り」をわたしに頼んだ「禅寺の東白寺」母の記憶は「東伯」実際には「東白」だった。
これからはお国替えした母がわたしを見守るだろう。
このように墓参りの意味を理解した。
家内が母の部屋から俳句に関するものを農園に運んできた。
其桃(きとう)会に推薦され、平成17年に同人となった証ははじめて見た。その3年前に会に投句した「病名は触れずに見舞ふ菊日和」が俳句大会雑誌の部で大会賞を受け小さなトロフィーまでいただいていた。
その当時わたしは、農園をはじめており農園生活。母の俳句は知らなかった。
会社経営を辞めて養鶏をはじめると知らせたとき、母は「なんでか」と泣いた。わたし家族がやっと生活が安定して母は安心だった。それから数年あと、地元新聞に寄せた

成りゆきは 子に任せいる 夏座敷

母の人生は、わたしに任せようと腹を決めた夏の部屋。
たくさん作品があり驚いている。母の筆跡から心模様を整理しながら母が偲べる。

体重2キロ減

毎週水曜日は吉部八幡宮の朝参り。本殿ご祭神には母が楽に日々が過ごせるお願い。祖霊殿の西君の神様には農園の仕事に支障がないようお願い。
今週は水曜日が葬儀に決まり、朝参りは月曜日に変更。母が今日までいただいた数々のおかげに御礼を申し上げた。
今朝は、母の葬儀が麗しく仕えることができた御礼の朝参り。水曜日のお客さまには「今週は金曜日にまいります」と配達の変更をお願いしていた。今朝は今村夫妻との会話が楽しみにスタート。
先週から神宮球場?の大学野球、専修大学の観戦・応援に自家用を運転して行かれた。奥さまと横浜の子供さん宅で合流。その帰り道、月曜日の朝8時過ぎ「足立美術館に着きました」とご主人から電話をいただいた。横浜から帰り道に山陰に立ち寄る70歳の体力に驚いた。今村さんは相撲に野球・菜園・陶芸に書道に酒道をきわめておられる。美術館は奥さまと至福の時間を過ごされた感想を聞いた「今度は僕の運転で、秋の足立美術館に行きましょう」と誘っていただいた。
わたしの話題は、やはり母の葬儀。家内のお姉さんが10年ぐらい前にバスで四国遍路をされたとき、白衣に全部のお寺の朱印をいただき母がそのときまとうようプレゼントしてくれ母は大切にしていた。葬儀は金光式で仕え、棺の母は八十八のお寺をまとった。それを「ちがう」と誰も言わない。日本は八百万の国。その実感を話した。
今村奥さまは、例え子供とわからない認知の親でも、生きておれば会えるからね。
わたしの母も一時期は、ひとり息子のわたしがわからないときがあった「警察を呼ぶぞ!帰れ」と言われても親子の絆はゆるまない。管で生きている高齢者を、それは無駄な治療だと思っており、今もかわらないが、それでも生きてほしい近親者の気持ちが理解できるようになった。
気力が失せてため息が出る。約7年、母のもとに時間をくめんして会いに行った。そのくめんをしなくてよくなった脱力感はある。
配達をすませて霜降山温泉に行った。サウナもお湯に入るのも煩わしい。体重が1週間で2キロ減。

母の記憶遺産をつくる

西君やたくさんの方々と人生のなかでお別れをしてきた。その悲しさと母親との別れはちがう。別れた人はさがしても会えない、会話もかなわない。それは同じ。
母は私に人生をとおして愛情をそそいでくれた。それがじわじわ実感となり、その母を思い出のなかで探さなければならないことが寂しい。
人は縁(ゆかり)のある人の心のなかに生きるという。それは縁ある人もいなくなれば終わり。墓を建立して、せめて名前は後世に遺そうとする。
わたしは、名前よりこれから数ヵ月のあいだに母の人生をひ孫たちまでに伝える文章の作成をはじめようと決めた。
確かに、わたしには未婚の母(シングルマザー)。
母のいちばん下の妹は80歳。兵庫県。
2年前に妹の鶴子おばさんを訪ねた。母とは15歳近く歳が離れており、長女だった母は早くから奉公に出され鶴子さんとの生活はない。その鶴子さんがわたしに「あんたの父親は、それは立派な人じゃった。直江の家にも何度も両親に挨拶に来てくれ、手紙もたくさん達筆だった。当時は貴重な牛肉をかたまりで送ってくれ、それが楽しみじゃった。姉さんは嫁にはなれなかったが幸せじゃったと思う。あんたは父親がおらんかったと卑屈にならんでええ。立派な獣医で紳士だったから」
中国大陸で母は幸せな時があり、わたしを生めば嫁になれると夢を描いた。愛する人を信じて故郷に帰らず宇部に単身来た。母は人並み以上の恋に生きた。
晩年、俳句が趣味になりいくつか書きためている。その作品もひ孫たちに伝えておかねばならない。
終わりよければ すべてよし。まさに母の人生。

いつもの木曜日。小雨のなかを1日元気に走り終えた。午後から国会中継は河村建夫先生が委員会の議長。ご夫妻親しくしていただいており誇らしくラジオを聴いた。

わたしを支えた母

きょうは、9時から写真撮影。それから葬儀。火葬場。式場にもどりご祈念。昼食のスケジュール。
先日から健太の体調が悪く食べない。葬儀で過密なスケジュールのなか犬の体調を案じるのは喪主としてどうかと思いながら、4時に農園に戻った。健太の大好物缶詰をきのう4缶買い求めた。犬3頭を運動させて健太の食器を缶詰で山盛りにした。全部食べてくれたから、安心して7時に式場に戻った。

身内が祭主を仕える葬儀。参列者全員が特に近親者。母にお礼の心がひとつになった。
喪主の挨拶では、母の一粒が宇部で花を咲かせて子孫ができた。
退職金と貯めたお金の全部で小さい建て売り住宅を買い、それで私夫婦と長男が同居ができた。わたし28歳で「株式会社ぎじろくセンター」を創業。資金繰りの担保は母名義の自宅と母の実印。わたしと家内は働くから家事と子育ては母。母の後押しがなかったら経営できなかった。
母が病の痛みから解放され、霊さまとなり自由になった。年齢に全く不足はない。わたしの親孝行点数は母がつけよう。
いつも「帰りたい」と言うたから、きょうからしばらく自宅の母の部屋に鎮まっていただく。老後を考えて自宅には手すりをつけ、母の部屋にはキッチンとトイレもつけた。風呂にも手すり。浴槽も考えた。そのどれも使わなかった。
きのうから一連の祭事を、きっと母は喜んでくれているだろう。

母の終祭うるわしく

火曜日の仕事を駆け足で終えて4時に農園にもどった。
11時に太秦教会家族が新幹線で新山口駅着。同じ時間に母を納棺の儀式があり家内と真砂恵さんが参列。
夕方7時からの終祭(通夜)母の身体から霊を御霊爾「ごれいじ」(位牌)に遷す儀式。
母の一粒の命があったればこそ、16名の命が家族葬の場に集うことができた。
96年の人生には戦争(宇部空襲・母27歳)などから生き延びて33歳でわたしを生んだ。主人と呼べる人はいないが愛する男性はいた。支那語が理解できる不思議な人生。
遺影は鉛筆画の中山さん作品。明日の骨壺は今村さん作品。葬儀社でも異例な葬儀。
今夜は母の棺柩の側で休む。

母お国替え

昨夜12時ごろ家内の携帯電話が着信した。母の容体が悪くなり、集まれる近親者への病院からの連絡だった。まだお祝いのアルコールは抜けていないが緊急事態に手早く着替え、家内の運転で夜道を急いだ。
病院の駐車場に着いたとき正志から「いま息を引き取った」と電話を受けた。病室には正志家族と真砂恵さん家族の全員が揃っていた。わたしたちの到着を待っていた医師が死亡確認をして死亡を告げた。
日曜日の朝、器官に絡まるたんを吸引するため管を鼻と口から奥深く挿入された母は、痛みを言葉にできないから身体をよじった。
たくさんの錠剤を砕いて嫌がる母の口に入れ、母は悲しい表情で吐き出す。
もう管も薬もやめて楽にさせてほしいと思ったが、医師の指示で献身的に職務を果たす看護婦に「やめてくれ」とは言えない。
楽になった母の表情は穏やか。子どもたち家族は帰らせ、わたし夫婦が葬儀社の車で式場安置の間に寝かせ、簡単な打ち合わせを済ませて農園に戻った。普段は起きて動きはじめる4時前だった。

7年転院を繰り返したが、その前に母が農園に来て、自分の葬儀についておもいを話した。家内が書き留めている。母の願いどおりにする。細々したことは割愛して大きな柱は2つ。
長女の照美さん主人(金光教太秦教会長)祭主で葬儀を仕えること。
家族葬にしてほしい。母の妹(80歳・兵庫県在)にも知らせんでよい。落ち着いてから知らせてくれ。

朝6時を待って太秦教会に一報を入れた。いよいよ96年の人生区切りの場を迎えた。

いつもの月曜日と同じように、配達の最初は岡本拓也家。お母さんと順子さん(拓也さん妻)が玄関できのうのお祝いの会が話題「で、お母さまは」と問われて一瞬困った。
この場で、母の国替えを言えば「家族で」という母の願いにそえない。その理由も加えて昨夜からのことをお話した。拓也さんから電話があり「みなさんにお伝えしなくて本当によいですか」と念を押された。
日記では書かねばならない。けれども日記を読まれた方も、どうか母の願いをお汲み取りくださいまして、お志はされませんようにお願い申し上げます。
母に育て上げていただいた御礼を申し上げるご葬儀をお仕えさせていただく。

母が心配の日曜日

岡本夫妻の体操教室の夢が体育館完成のお披露目が午後から催され、それがきょうの私1日の柱にした。
朝は母に会いに行った。金曜日から2日で母は末期の様相になった。むくみを「浮腫」というが肝機能不全で水ぶくれ。全身の痛みで苦痛で顔がゆがむ。介護の方が手をつくして自力の食事を促しても無理。
医師は母の身体に取りつけた計器の数値を診る。これが現代医学の粋らしい。
そんなに長い命とは思えない母が、身体を張って老いて往く姿を私の心に焼きつけてくれる。
10年前にがんで早い人生になった下関掃除の仲間(昭和26年うまれ)の佐伯さん(山口トヨタ下関店工場長)の奥さま願いで、農園川沿いに奥さまの願いで桜を20本植えた。佐伯ご家族(奥さまとお子さん二人)が岡本さん(当時、岡本拓也さんは店長。佐伯さんは工場長)植樹の日、長男が時計など父親の遺品を持参した。植える桜の根元に。
佐伯さんの表札が根元に埋められそうになった。赤間神宮で佐伯夫妻が挙式をあげた祝いに宮司が書いた。
それは桜の穴に埋めず、わたしの部屋で10年、その表札は鎮座。うまい酒をあけたら「佐伯さん」と供えた。その表札を岡本拓也さんにバトンをまわした。
痛風を心配しながら、今夜は焼酎と日本酒をたくさんいただきました。

今月の草刈り完了

今朝5時から1時間草刈りをした。汗を流して朝食の準備(わたしと犬たち)7時前までに台所を磨いて、犬たちを運動させるから慌ただしい。痛風は薬が効いて痛みはほぼ治まって、炎症はまだ残り足の親指は赤く腫れている。
山口市内・萩市内・長門市・美祢市を走り土曜日の配達。
美祢の「よしの」に立ち寄り拝借した本をお返し。
パラオを日本が統治して現地の人に教育を行いインフラ整備をした。パラオ諸島が戦場になるとき日本軍と戦いたいと志願した住民もふくめ全島民を強制疎開させた。死ぬのは日本の兵隊だけでよい。その強制疎開の理由を戦後住民は知った。だからパラオ国旗が日本国旗に似ていることなどを理解できた感想を、開店前の店主に話した。
土曜日のお昼は「もやしラーメン」それにプリン体0発泡酒。30分昼寝ができた。
残りの面積の草刈りを1時間半、汗を流してやり終えた。
エンジン高圧洗浄機でハンマーナイフの汚れを落とした。

NHK総合テレビ。6月14日午後9時から60分「沖縄戦 全記録」が放送される。

母の体調下降線

5時までにいろいろ済ませて「朝ごはん7時に頼む」と家内に声をかけて草刈り。
農園隣接の一番面積の広い耕作放棄地の草刈りは、ハンマーナイフで2時間で終わる。痛風の痛みは薬が効いており長靴が履ける。
6時ぐらいから汗をかきだした。予定どおり7時にきれいに刈れた。
昨夜、母は2階から5階の治療病棟に移されたと連絡があった。ベッドが空きしだいと言われていた。空きがきのうできたのだろう。シャワーで汗を流して、病院に行く前に、まだのびてはいないけれど散髪に立ちよった。そういう気持ちになった。
5階のナース詰所の前の部屋、廊下側だから詰所に一番近いベッドで眠っていた。入れ歯をはずしているから母とは思わなかった。
ゆり動かして目をあけさせて大きな声で、痛くはないか、心配なことはないか、ご飯は食べたかなど尋ねた。返事は首の動き。先日の直江(故郷)の画像には目をあけて反応がよかった。
「診療計画書」に看護婦からサインを求められた。書かれていることを承諾するサイン。病名は4つ。慢性腎不全・全身性皮膚硬化症・慢性心不全・認知症。
今朝は介助されて食べたが、足の血管から高カロリー点滴をはじめる。全身どこをさわっても痛みを訴える。
よろしくお願いしますと頭を下げた。
きのう卵70個が荷台から落下してご迷惑をかけた菊川のお客さま宅まで1時間走った。
菊川には露天風呂や源泉風呂などがある安い温泉(300円)がある。
母は旅行も行かず、趣味は俳句ぐらいで、30数年わたしを育てるために働き、退職したあとは朝から家事をしてくれた。母の支えでわたし夫婦は仕事ができた。けれども親孝行ができていない。そんなことをお湯のなかで考えた。
昼寝をすませて、きのうよしのさんから拝借した「パラオはなぜ世界一親日国なのか」を一気に読み終えた。
日本統治時代、現地でおこなった教育とインフラ整備が詳細に解説されていた。

鎮痛剤ありがたい

6時半。配達準備が終ったころ外につないだ犬が激しく吠えた。先日草刈りをしたので視界はよい。茶色のウサギが疾走して漁網の穴から山に戻った。
山から動物の侵入を防ぐため張り巡らしている漁網のほころびをウサギが知らせてくれた。草刈りもウサギをハッキリさせた。環境を整えておく大切さがわかった。
昨夜から痛風の痛みと炎症を治す錠剤を飲む。胃が荒れるから胃薬もセット。驚くほどの効き目でよく眠れた。胃が荒れようが、あの激痛から解放されるならためらわず飲む。炎症はあるから足の親指腫れと熱はあるが痛みはない。
雨の木曜日、雨具を着こんで配達に出た。
70個のお客さまの包みが、なぜそうなったのかわからいが後ろのドアを開けたとき、上下三段に仕切っている真ん中の段からアスファルトに激しく落ちた。配達を待っておられた奥さまに事情を説明して、明日の午前中にお届けさせていただきます。と深々頭を下げた。割れた金額より70羽の鶏が生んで、農園で働く人が手をかけた卵を割ってしまったことが悔しい。
美祢の「よしの」には定刻3時に着いた。新しいメニューを夫妻で検討中。
4月に陛下が慰霊に訪れらたパラオ。
「パラオはなぜ世界一の親日国なのか」読み終えた店主が「足立さんは3回泣ける」と貸してくれた。月曜日には読後の感想を添えて返却しますと言い借りた。
母が気になる。痛まないことを心中祈念しながら木曜日がおわった。

痛風ギブアップ

5時までに犬など済ませて草刈りをした6時まで。
痛風が長引き雑草の背丈がかなりになった。まだ痛みはあるが長靴を履いてハンマーナイフ(草刈機)を使った。長靴の重みが左足の親指をだんだん痛くした。
6時から7時前まで食事と後始末などを済ませて八幡宮朝参り。
母の病院から昨日呼ばれて家内が行った。CT検査をしたのは食欲が落ちた。自分では食べる意欲が失せた。
検査の結果は腎臓が悪い。治療は高齢でもあり積極的には困難。栄養剤などの投与をはじめ治療病棟に移す。
もう長くはありませんよと言う意味合いの宣告を受けた。その家内の電話報告を聞いた。
墓参りをしてくれんかね。と言った母の願いを先日叶えることができた。
神様には「母が痛みませんように」と祈りをこらした。
朝の草刈りが足に悪く腫れと痛みが増してきた。配達を終えて病院に行った。美人の主治医がよけい美人に見えるほど痛みは切迫していた。助けてください。とにかく痛みと熱をとることが尿酸値を下げることより優先するから「胃に負担がある薬を処方します。胃薬も出しますから毎食後飲んでください。治ります」ジャグジー温泉・ウォーキング・草刈りは禁止になった。
今村ご主人は、専修大学野球応援などの目的で、奥さまが「飛行機で行きなさい」を聞かずに、昨日から車で横浜行き。わたしも負けない元気を取り戻そう。

薬も必要なときがある

3時起床。痛風の痛みがやわらいできた実感は、掛け布団にこすれても痛くない。腫れはまだ治らないが痛みは減った。
7時から約1時間、歩くペースを落としてウォーキングもなんとかできた。
お客さまの趣味や大切にしておられることを聞くチャンスがあれば声をかける。人間関係がより深まる。
バラの手入れをされている奥さまに「きれいに咲きましたね」と声をかけた。バラは年に4回花を咲かせるが、虫や病気の世話がたいへんだと具体的に教えていただいた。
美祢市役所周辺は桜の名所になっているが、やはり年間をとおして消毒や剪定をされている。手間をかけたら答えがでる。
農園をはじめた頃、樹齢200年以上というモミジの古木をトレーラーに載せて押し売りに来た地域の業者。言葉たくみに買わされた。10年ほど経過して枯れた。その間に問題はなかったから業者の責任ではない。
切り倒しモミジを4年まえに植えた。その木が一晩で枯れた。よく観察してみたら幹に虫が入りオガクズが出ていた。
薬を使う消毒は好きではないが、使わなければ維持できない現実もある。
明日の配達ルートにかかりつけ病院がある。まだ腫れて痛いようなら診察に立ち寄ろう。薬をたくさん処方されたくはないが治りたい。

梅雨らしい月曜日

牧さん。天草市から浜田市に現場(高速道路メンテナンス)が移ったとメールが届いた。重労働、危険で人がやらない仕事を彼は10数人宮崎の男逹を束ねて全国行脚をする。近いうち移動の途中に農園で泊まってくれる。楽しみにしている。
その浜田市のとなり益田市にはキャバレーがあると先日の夜、仁資さんが言った「シーラカンスのようなホステスじゃった」店の名前を聞いたら、わたしが30代のころ一度行った店だった。暗くてよく見えなかったがホステスさんは高齢だった。永年勤続されているのだろう。なぜ益田市でキャバレーに入ったのか理由が思い出せない。
痛風の先輩。岡本拓也さんに体験談をうかがった。わたしが今朝も痛いのは、金曜日に温泉のジャグジーで痛い親指を刺激(気持ちがよいから30分ぐらい)したのが悪化の原因。大根おろしをたっぷり食べると治りが早い。最近ビールの量が増えたからではなく、若いときからの積み重ねが痛みとして結果になっている。そばで会話を聞いていた順子さん(奥さま)が「飲み過ぎは、足の痛みで清算するんじゃ」と突き放された。
岡本先輩が言われるように、痛風という病は贅沢病だ。自分がおこした結果だと周囲の同情はない。
シトシト雨にうたれ、雨具をとおして下着まで濡れた月曜日を無事おわり。

真っ赤なミニクーパー

昨夜の集まりは、いったんお開きにしてお帰りの方を見送り。
それぞれホタルを観賞しながら家路につかれた。
佐々木仁資(じんすけ)さんと女性一名がお泊まり。12時近くまで酒を酌み交わした。
仁資さんの愛車は真っ赤なボディー、屋根は黒のミニクーパー。雨の日や長距離は使わない26年磨きこまれている。先日、エンジントラブルがあり問題ヵ所以外の電気コード類なども交換して約40万円かかったらしい。セル一発で始動。軽快に爆音を轟かせて帰られた。
山口市内に8時納品。母の顔をみて農園にもどりゆっくり日曜日になった。
痛風の足の親指が腫れて痛い。草刈りをやりたいけれど無理。痛み止め薬とエアサロンパスで応急治療。治らなければ病院。

農園ホタル

今夜は農園ホタルを見たい人が8名(男女4名)が夕方集ってくれた。
せっかくだから数学の藤野先生の話を車座で聞かせていただいた。数学は情緒という説。数学者の岡潔が戦後押しつけられた日本国憲法に「博愛の精神がない」と言い放った。数学は情の世界。
萩の地ビールと酒を佐々木仁資さんが差し入れ。仙崎モズク・美祢の猪肉に農園タマゴなどを家内の料理。
農園自慢のヴィンテージ焼酎をたくさん開封した。
今夜は仁資さんの独壇場が終わらない。

母が喜んでくれた

朝食の終わるころ母に会いに行った。故郷の斐川町直江の駅や古い街並み、寺に神社などたくさん撮った写真を、タブレットを両手で持って見た。見覚えのある足立家の墓はしみじみと見た「ご親切にありがとうございました」と他人行儀な言葉をわたしにかけてくれた。嬉しかったのだろう。
県立美術館で開催中の篠山紀信展の招待券を一枚いただいている。来週で催しが終わる。思いきって山口市に向かった。
わたしが入館したとき、どこかの特別なお客さまと一緒になり、学芸員が解説する側でコバンザメをやった。解説を聞きながらの作品108点は圧巻だった。
特に大迫力は歌舞伎座。最新のデジタルカメラを客席後方から据え、役者の汗まで撮っていた。解説によると、フィルムではここまで鮮明に撮れない。カラープリンターは世界最新鋭の精度。この歌舞伎座作品は、現在の技術力が裏打ちしていると。歌舞伎座約30点はよかった。
樋口可南子の日本初のヘアヌード写真集を出したのも篠山紀信。自宅の書棚にあるから農園に移そう。
湯田温泉「温泉の杜」に立ち寄り湯をした。ジャグジーで痛い痛風の足親指をマッサージした。
昼間、ハッピーは昔のヤギ小屋。健太は村上棟梁渾身のガレージ。これから暑くなりガレージの健太は屋根からの暑さに耐えられるように、ホームセンターで日除けシートを買い取り付けた。

月明かり草刈り

4時に「6時に食事を頼む」と家内に言って作業服に着替えた。
木曜日は体力をたくわえて走りはじめるが、家内が泊まり、満月の月明かりで暗くない。気温が冷え込んでいるから汗をかかない。種々の好条件が整っている時間を見逃せない。犬の運動をさせ、鶏舎の戸を解放してから草刈り。
今朝の草刈りは肩から担ぐタイプで、大型草刈機(ハンマーナイフ)では刈れない斜面などを刈った。
朝食をいただき、6時半に木曜日をスタート。この時間に少し疲れを感じた。
小月駅前を7時ごろ通過する。片方の後足半分をなにかの事故で切断している犬の散歩を毎週見る。体重は20キロぐらいの雑種犬。飼い主はその尾をつかんでリードにして歩くバランスをとっている。生きるため、生かせるための姿が尊い。
中国で沈没事故。韓国でもそうであったが船長は無事らしい。
以前、4級船舶免許を、釣り船を操船する目的で取得した。講義の講師は外国航路の船員を長年された方だった。シーマンシップというのだろうか、海での礼儀に力を入れて講義がされた。例えば、車では飲酒運転禁止。けれども(その当時)船にそれはない。理由は海の上では紳士であらねばならない。
あるお宅で石油ストーブを消さずに奥さんが灯油をさした。火が溢れたが主人がとっさに庭に運びひどい火傷をされた。
家庭でも船でも「長」がつく人は我が身より乗客や家族の安全を優先しなければならないと思う。
新規のお客さまができ、加奈ちゃん30歳の誕生日目的あり、「よしの」夫妻は昨日(篠山紀信展)を楽しんだなど、たくさんの話題に接して木曜日。
4時過ぎに農園ゴール。

石橋談義

橋を眺めるのが好き。配達コースにもお気に入りの橋の風景がある。一番好きな橋は、むかし宮崎県飫肥から日南市まで飫肥杉の搬出でつくられた堀川運河。その運河が太平洋と交わる手前に少しアーチの石橋がある。あの風情が街並みに溶けこんでよい風景。
観光吊り橋や、観光カズラ橋には興味がない。宮崎県椎葉村には村人の生活をささえているカズラ橋がある。
大分県や熊本県には石橋がたくさんあり、とくに大分県山国川にはたくさんある。山口県には萩市三見の旧赤間街道に巨大な石橋がある。
あの石組みは、組み合わせた石の重量バランスだけで曲線を描いている。どういう工法で完成するのか知りたかった。
配達先に石材店のお宅があり、たまたまご主人が在宅だったので「教えてくださいませんか」と頭をさげた。
図を描いて、わたしにわかるよう説明してくださった。橋が出来て石を支えている木材や足場を撤去すれば完成となる。その支えを外していくとき、棟梁は橋の真ん中に立つ。崩れたら大勢の人夫が石の下敷きになる。親方は万全の工場の自信を真ん中で示す。
あの石橋を積み上げた当時の計算方法がわからない。勘で出来るものではないと。

足立美術館でゆっくりできた満足感が、まだ余韻をのこしている。「心ゆたか」が少しわかりはじめたのかも知れない。

ドイツのベアリング技術

庄原市の林さん(金光教・掃除・酒で仲間) 足立美術館から90分でわが家だから泊まらないかと誘われていた。過去に何度も泊めていただきすべて二日酔い。今回の帰り道、ナビの案内で「三次IC」をめざしていると庄原市に入った。もし庄原市内に入れば林さんのお宅にご挨拶はしなければと思った。三次との分岐点は中国山地で一番豪雪の庄原市高野にあった「道の駅」があり、僻地でありながら駐車場には乗用車があふれ、コンニャクや比婆牛肉、格安野菜などを買い求める人で混雑。家内はアスパラガスなど買いたいがクーラーボックスに蓄冷剤がなくあきらめかけたら無料の製氷機があり財布がゆるんだ。どうすれば買い求めてもらえるかを道の駅は極めていた。
中国道を走っていたらバックミラーに見えた車が爆音をあげて風圧を巻き上げて追い越した。
火曜日。おおきなドイツ車の糸賀社長。美容の仕事でヨーロッパ通「アウトバーンで速い車は何キロぐらいで走りますか」と聞いた。社長も10レーンほどのアウトバーンを200キロオーバーで走ったが、どんどん追い越されたと話された。
山口市内の老夫妻。ご主人は長身で外人俳優のような80歳。今はドイツの乗用車だけ。わたしが最初にお会いとき(15年前)はドイツ製大型バイクがガレージにあった。
ドイツに行き、このバイクを買い求めアルプスなどツーリングしてバイクは船で持ち帰った話を聞かせてもらった。
ノルマンディ上陸前、連合軍が空爆したドイツの標的はベアリング工場。ドイツの戦車、航空機に潜水艦を駆動するエンジンの力を伝えるベアリング技術は優れていた。
痛風のお客さまに、痛風との付き合いかたを指南された。尿酸値をさげる薬は副作用ないから生涯続ける。やめて次の発作(痛み)は、文字どおり風があたっても激痛。僕たち夫婦はその薬を続けています。薬のプロパーを退職されたご主人の言葉だから、わたしも薬は必要。

6月元気にスタート

平和安全法制特別委員会が先週から継続されており、配達をしながら断片的にラジオで審議を聞いている。
自衛官に攻撃してくる相手への武器を使用した反撃。その銃弾が万一民間人の命を奪うことが起きれば自衛官は裁かれるのか。
北朝鮮からミサイルが発射された場合、7分で日本に到達する。そのミサイルが日本をこえてアメリカ本土に向かう軌道なら放置してよいのか。
武器や兵員輸送を担う任務を自衛隊が行っているとき戦闘が拡大したら、リスク回避で任務をやめるのか。
さまざまな疑問がおきる。
お昼前、前原さん(民主党)が。
クリントン大統領時代、北朝鮮の核開発に危機感をもち、核施設空爆を視野に、開発中止交渉をした。交渉が決裂すれば、核がメルトダウンして放射能が飛散しない空爆計画を示した。北朝鮮は承服した。
中東紛争地や海上給油に日本が貢献したのは、北朝鮮から攻撃があったときアメリカの後ろ楯が必要だから自衛隊を派遣した。
つまり、アメリカは自国の安全保障のため(日本の保障ではない)北朝鮮に関してあらゆる情報収集をしている。
その意味において、今審議されている安全保障の前提条件はちがうとの発言をされた。
驚いたことは、総理も防衛大臣もアメリカと北朝鮮の交渉を「当時、知る立場でなかった」と。今回その経緯ははじめて知ったと答弁。
もっと国民議論が盛り上がるテーブルを急がないでよいからやったほうがよい。
岡本拓也さんのお母さんが、早朝からハチクをたくさん採ってくださった。ハチクは美味い。わたしが走る場所まで家内が来てくれてハチクを渡した。
先日いただいた仙崎のモズク。
このふた品も夕飯になる。
土日で約600キロを軽四で走ったが、疲れはなく元気に6月1日を終えた。