日別アーカイブ: 2015年6月15日

母お国替え

昨夜12時ごろ家内の携帯電話が着信した。母の容体が悪くなり、集まれる近親者への病院からの連絡だった。まだお祝いのアルコールは抜けていないが緊急事態に手早く着替え、家内の運転で夜道を急いだ。
病院の駐車場に着いたとき正志から「いま息を引き取った」と電話を受けた。病室には正志家族と真砂恵さん家族の全員が揃っていた。わたしたちの到着を待っていた医師が死亡確認をして死亡を告げた。
日曜日の朝、器官に絡まるたんを吸引するため管を鼻と口から奥深く挿入された母は、痛みを言葉にできないから身体をよじった。
たくさんの錠剤を砕いて嫌がる母の口に入れ、母は悲しい表情で吐き出す。
もう管も薬もやめて楽にさせてほしいと思ったが、医師の指示で献身的に職務を果たす看護婦に「やめてくれ」とは言えない。
楽になった母の表情は穏やか。子どもたち家族は帰らせ、わたし夫婦が葬儀社の車で式場安置の間に寝かせ、簡単な打ち合わせを済ませて農園に戻った。普段は起きて動きはじめる4時前だった。

7年転院を繰り返したが、その前に母が農園に来て、自分の葬儀についておもいを話した。家内が書き留めている。母の願いどおりにする。細々したことは割愛して大きな柱は2つ。
長女の照美さん主人(金光教太秦教会長)祭主で葬儀を仕えること。
家族葬にしてほしい。母の妹(80歳・兵庫県在)にも知らせんでよい。落ち着いてから知らせてくれ。

朝6時を待って太秦教会に一報を入れた。いよいよ96年の人生区切りの場を迎えた。

いつもの月曜日と同じように、配達の最初は岡本拓也家。お母さんと順子さん(拓也さん妻)が玄関できのうのお祝いの会が話題「で、お母さまは」と問われて一瞬困った。
この場で、母の国替えを言えば「家族で」という母の願いにそえない。その理由も加えて昨夜からのことをお話した。拓也さんから電話があり「みなさんにお伝えしなくて本当によいですか」と念を押された。
日記では書かねばならない。けれども日記を読まれた方も、どうか母の願いをお汲み取りくださいまして、お志はされませんようにお願い申し上げます。
母に育て上げていただいた御礼を申し上げるご葬儀をお仕えさせていただく。