月別アーカイブ: 2013年9月

明日から10月

美祢市は元々の美祢市に秋芳町と美東町が合併され現在がある。典型的な高齢と過疎の街。ディスカウントの薬屋があったが、先日もう一軒の薬屋が新装開店。そしてもう一軒が現在建設を急いでいる。
きのう家内と宇部市内大型家電店に行った。「本日5万円値引き」の札がペタペタはられた光景に驚き、さらにワインから日本酒に焼酎。お菓子に工具類などこれが家電店と驚いた。
美祢市の薬屋もあらゆる品揃えとポイント合戦になるだろう。地元の個人商店はすでにほぼ廃業している。
わたしは、当時すでに形骸化していた「米通帳」を婚姻届けで役所から受け取った。日本は規制緩和でほんとうに住みやすい地域がつくれるのかを考えてしまう。
その美祢市で、新しいコーヒーメーカーを買ったから使ってください。いきなり汚れた品物をお客さまから押しつけられ、一応お礼を言っていただいた。
腹が立つ理由を数々考えながら走った。不要になったから使いなさい。それが全部不快か?そうではない。
数年前に糸賀社長が「このイギリスで買ったコートは重いから、先日軽いコートを買った。寒い農園にはピッタリだからあげよう」このコートは寒い夜にパジャマの上に着て夜間の水道凍結の見回りに使う宝物。
「読み終えたからどうぞ」と、わたし好みの新刊をいつもくださる読書家のお客さま。このいただき物が嬉しい。
わたしがいただかなくてはならないものは「足立さんにあげよう」の心でなくてはならない。
それが、やっとわかった月曜日。

親孝行ができた

家内が泊まり、母が食べたい煮しめをメインに用意をしてくれた。
農園栗ご飯・野菜と鶏肉の筑前煮・少々の豚カツ・ササミのサラダ・だし巻き卵・奈良漬・保温器で味噌汁・リンゴのデザート。
松華堂弁当箱に詰め合わせて8時に到着。昨夜から職員さんに「朝食が楽しみ」と母は話していたらしい。化粧も済ませてお待ちかねだった。
一番好評は奈良漬。どうやら酒の味を思い出したようで「一杯ほしい」を連発した。ほぼ完食してくれた。次回の持参の朝食には少しの酒を用意してやろう。
山口市内の納品をすませて、昼食に豊田町道の駅まで足をのばした。県外ナンバーの車などで大混雑、レストランも順番待ちの盛況。もともと人混みは苦手なのですぐに出た。
どこかでビールの昼食をしたい。思いついたのがトラックドライバーの「満潮食堂」ここもトラックとマイカーで広い駐車場がほぼ満車。腹がすいていたのでテーブルをさがした。ホルモン焼きとビールで昼食。
農園にもどる道に「汐湯(海水風呂)」があり関門海峡をながめてひと風呂あびた。
今夜は真砂恵(次女)家族が来てくれる。家内は鹿肉と豚軟骨料理などをつくっている。わたしは昼からずっとアルコール。

プロジェクトX

先日「プロジェクトX」第一回目の番組(巨大台風から日本を守れ)が特別再放送され録画した。
昭和34年の伊勢湾台風では83万戸が倒壊。5千人の死者がでた。当時は3時間前の気象予報しか出来ない、それがもたらした結果でもあった。24時間前に気象の予報が出せれば最悪にはならない。
富士山頂に半径800キロメートルを映し出すレーダードーム建設の国家プロジェクトが始動した。その関係者9000名の総責任者は気象庁藤原寛人だった。
馬方衆と呼ばれた荷揚げの力では500トンもの資材が運べず、途中からブルトーザーで山頂まで運搬もした。数々のハードルを解決し、昭和39年8月に工場で組み立て、100メートルの風速に耐えうるドームの骨組みを空輸する場面になった。骨組み重量は620キロに対してヘリコプターの揚力は450キロが限界。しかも山頂には複雑な気流がある。それができる男は日本に一人しかいない。元海軍航空隊で零戦パイロット(特攻)の養成をした神田真三が抜てきされた。
気象庁の藤原が山頂気象条件を入念に調べた結果、8月15日(終戦記念日)が決行日と定まった。
パイロットの神田は機体を軽くするためドアや副操縦席などを取り払いドームを吊り上げ舞い上がった。そして神業のようなホバリングで任務を果たした。帰還したとき出迎えの人混みに操縦席で万感こみ上げ2分間姿をあらわさなかった「特攻隊の人に、国のために自分も命懸けで働くということで少しは借りを返せた」と回想された。
完成の2年後、藤原寛人は気象庁を退職。新田次郎のペンネームで作家となった。
わたしが若いころ、明治の時代に私費を投じて富士山頂に観測小屋をつくり、関東一円の気象予報をした野中到夫妻を描いた新田次郎「芙蓉の人」を読み、生き方に感激の涙がでた。八甲田山死の彷徨・剣岳・アラスカ物語に鳥島噴火を題材にした火の島。たくさんの作品を読んだ。文壇デビューは昭和26年の「海流」あの新田次郎が、レーダードームの責任者だったことに驚いた。
「男は、一生に一度でよいから自慢できる仕事をせよ。富士山こそその仕事である」
現在、ドームの隅にある銅板には携わった男、全員の氏名が刻まれている。
関心あるかたは、10月4日午前1時にもう一度放送があります。

寺子屋第二回

昨夜の「寺子屋第二回」は論語の解説。安田登先生の講義は、論語の一節の一行を解説されたらいったん区切りり、その解説を聞いての感想を周囲の人と交わす。先生から答え合わせはない。個人の答えでよい。
そのなかでわたしが深く考えたところは「謹(つつし)みて信あり」解説によると、一切言い訳はしないことが「謹み」
例えば、きょうの出来事。いつもの配達時間より少し早く着いた。お留守だったから玄関に置いた。しばらくして電話があった「きょうはずいぶん早く来られましたね。お金は来週払いましょう」
この「早く来られましたね」は自分肯定。自己弁護になり謹みにならない。「来週支払います」でよい。
わたしも例えば配達が遅れたとき「道路がこみ合いまして」と言う必要はなく「遅れて申し訳ありません」と詫びること。そのときワケを問われたら「渋滞していました」と言えばよい。
最後に能楽師としてのいったんを、八幡宮本殿を能楽舞台にして約10分の舞いでご披露くださった。初めて間近での迫力に圧倒された。
吉部の片田舎で、世界的に著名な先生の教えをいただき感動の時間だった。お世話人の藤野先生に感謝。
周南市の金曜日を無事おえた。おおきな秋田犬(15歳メス)を先日おくられた独り暮らしのおばあさん。最後の朝、おはよう!と声をかけたら応えようと這って小屋から出て尾をふった。あの姿を思い出しては今も涙が出るのです。玄関で涙がとまらない。その気持ちが痛いほどわかった。

エアコン無用の木曜日

エアコンを使わずに木曜日を終えた。
神戸震災でご縁ができた兵庫区浜山の福原さんから久しぶりに電話があった。
浜山地域から近いところに長田区菅原市場があり、火災で一帯は焼失し多くの犠牲者があった。NHKのテレビでこの市場の復興は外見だけで中身のない問題をテーマにした。ざっくりいうと、行政主導でエスカレーター完備の箱もの(商店街)はできた。しかし震災前、安い賃料で漬物や惣菜などを下町価格で商いしていた商店主には、復興したといわれる商店街に入って高い賃料は支払うことは無理。
それを福原さんも憂いていた「婆さんに娘の服を着なさい」というような違和感だと。
同じことがこれから東北でもおきるだろう。もうひとつ指摘された東北の問題は、放射能汚染への東電からの補償金。ひとり月10万円。その他にも声をあげれば数々の現金が慰謝料として受けとることができる。
もちろん当事者のみなさんには当然の権利といえよう。しかしこの図式から幸せは見当たらない。
今夜は吉部八幡宮で第二回「寺子屋」講師は能楽師などが肩書きの安田登先生。藤野先生のお骨折りで実現した。吉野さんや今村さん夫妻も参加予定。

万里の長城つくるぞ!

午後1時。小野田の松原分校駐車場で正志と待ち合わせ。農園から軽四トラックで来て、わたしはトラックで下関。正志はわたしの車で水曜日の残りの配達。
先週紹介してもらった漁網の保管場所に行き、総延長にすれば3キロメートルほどの漁網を積んで戻った。農園周囲に万里の長城をこれから築こう。
知り合いの児島正晴さん(76歳)が陶芸18年をむかえ、市内絵画グループとコラボで「正ちゃんの陶芸と7人の絵手紙展」を文化会館でひらかれる。会期中に行きたい。児島さんは中央大学在学中に「貧乏追放」のノボリを掲げて日本列島を二度縦断された。
二度といえば比叡山の荒行、千日回峰行を二度達成された酒井師が87歳のご生涯を終えられた。命に限りはある。
県立萩美術館で開催中の大和保男陶芸展の招待券を二枚いただいた。陶芸をされている今村さんに差し上げた。きょう夫妻で萩美術館に行かれて「よかった」とメールが届いた。
11月に仲間と行く下関のお店を携帯でさがしてみた
【店名】
韓風おうちレストラン てじょん
【URL】
http://r.gnavi.co.jp/1j5apf0y0000/?sc_cid=kpo_m

売上はボツボツ経営

毎晩6時半になると、柿の木から熟した実を食べに(渋柿)タヌキの子供が数頭くる。一番近い太郎は目と耳が悪いのでそれに気がつかない。タヌキはわたしの生活に全く支障はない。
残暑の山口市を移動中に非通知が着信。試食の結果がよければ都内で農園の卵を使いたい。言葉づかいは丁寧で、本当に検討いただいていると感じた。
採用された場合。月に約4万個は必要と言われ丁重にお断りした。
生産能力や売上はボツボツあがる経営がわたしには向いている。
その大口お客さまが「要らない」と断られたら鶏の命を削り、経営も暗転する。
湯田のラーメン店にお届け。いつもは閉まっているシャッターの鍵があいており、中に細身の若者がいた。警戒感を持って尋ねた「何をしよるか」彼は午前3時で閉店したあとに店舗掃除を任されているが、きょうは来るのが遅くなったと説明。わたしと同じシャッターの鍵を見せてもらい緊張はとけた。
残暑がきびしく夕方にはぐったり。

わたしの健康法

納豆は5年以上、毎朝必ず食べている。麦ご飯は半年前から。朝のウォーキングはまる2年になった。それと野菜と魚を食べるように心がけている。
そのどれが効いているのかわからないが腰痛は、毎月5千キロ以上走りながら完治した。
月曜日のスタートはウォーキング。坂道を4回、30分かけて往復を繰り返す。これをやらないと調子が出ない。
美祢の猟師さん。お昼前に猟仲間が大勢集まり猪や鹿肉を焼いて酒盛り中。この宴会は楽しそうだった。
連休なので配達さきでは日ごろは会わない家族の方が出てこられる場面が多かった。
若いころ、岡山にも仕事場があり、福山か倉敷で泊まっていた「ペリカン文書」という映画を見に行った記憶がある。その映画がテレビであったので録画して見た。社会派の内容で二度目でも面白かった。

西君のお彼岸

昨夜、小郡の田中さんと加奈ちゃんからメール。
田中さんは加奈ちゃんにあいたくて美祢駅の軽トラ市に11時に行ったら完売で店をたたまれ加奈ちゃんに会えなかったが、連絡したら駅まで来てくれ対面できた。今月のパン教室に参加を決めた。
加奈ちゃんからも、わたしが行った1時間後に用意したパンが売り切れ「よしの」さんに持って行けなかった。と嬉しいメール。

8時。母の朝食に間に合った。先週から足が萎えてきたのか車椅子。食堂に入ったわたしを見つけて満面の笑みで手をあげた。
部屋でクーラーボックスで持参した果物をうまそうに時間をかけて食べてくれた。兵庫県と横浜の妹は元気だろうかと案じる(横浜は国替え)。来週の朝食は家内と訪れ、部屋でリクエストの煮しめなどを食べてもらう約束。化粧水が少ないから買ってくるように頼まれた。

午後から麦わら帽子で仕事をしていたら激しい雨になり、トイレと風呂掃除に変更。
お彼岸。西君の墓に花と缶ビール。神式だが線香も供えてきた。農園横の事故現場にも献花。西君の笑顔を思い出した。

土曜日は昼寝つき

城下町の風情をのこす萩市の常茂恵旅館に朝7時に到着するのが土曜日。武家屋敷や川沿いを散歩やジョギングする人が多い。萩市から右手眼下に日本海を眺める長門までの高架道路を走る。特に今朝の海は視界も最高で、道の駅「さんさん三見」に立ち寄り大小の島々やたくさんの漁船を双眼鏡で見た。
湯本温泉、大谷山荘は連休入りで働かれるみなさんの動きから緊張感のようなものを感じた。
美祢市の河村プロパンではおおきなビニール袋6つもアルミ缶をいただいた。
美祢駅前の軽トラ市をのぞいたら加奈ちゃんが長男を連れて開店準備。たくさんの種類のパンが並べられていた。となりの魚屋にアコウが800円。ひとりでは食べきれないから買えなかった。
山口市のスーパーマーケットに納品。生秋刀魚が197円。二匹と麦焼酎などを買った。
昼にご飯とロング缶で昼寝。午後からゴソゴソ農園内の仕事をした。

トルコライス登場!

きょうから黄栄作さんの笑福カレー店では、新メニューの「笑福風トルコライス」が加わった。

アルミ缶回収の輪がひろがる。たまたま荷台のアルミ缶を見たお客さまが不思議そうだったから説明した「来週から近所にも頼んで集めておきます」美祢市の河村プロパンは卵のお客さまよりアルミ缶協力者のほうが多い。
頭痛のお客さま。医者で検査をしても原因不明。わたしは頭痛がおきるという気持ちが頭痛にさせているのではないかと思い、わたしの体験を話した。
高校生のころから吃音になり、そうなりはしないかと意識したらそのとおりになる。30歳のころ、電話が苦手で家内に頼んでいた。それを長崎の大渕先生(金光教教師)から愛情たっぷりに叱責された。その言葉で「よし」と発起して日本セルラー社(モトローラ製)の携帯電話を買った。電話から逃げない気持ちをカタチにした。それからだんだん普通に会話ができるようになった。
たまたま、それはわたしのラッキーな事例ではあるけれど、気持ちが身体をコントロールすることもあるように思った体験を立ち話にした。
朝のラジオで失敗談。むかし名古屋に行く用があった。宇部駅を夜11時ごろの寝台特急「さくら」に乗れば終着駅は名古屋。友人が言った「さくらの最後部車両はサウナ。缶ビール販売機もある」と親切に教えてくれた。乗車してタオルと小銭を持って後部車両に向かった。途中で車掌がいたから「風呂はすいていますか?」と尋ねたら目を見開いて驚いた。わたしはだまされていた。

念ずれば花ひらく

晩秋から春にかけてイノシンが出没してミミズを捕食する。掘り返された場所はくぼ地ができ石が出て散乱する。
春になり草刈りにハンマーナイフ(自走の草刈機)を使うまえに整地して石を除く作業に苦労する。
イノシンが入らないようにする方法は電気柵やトタンで壁をつくる方法などあるが、推定2キロメートルを囲むには費用がおおきくなる。田舎を走りながらイノシン対策を何年も眺めて農園のやり方を決めた。廃棄された漁網をタダで手に入れて張り巡らす。タダの漁網を手に入れる方法をいろいろ照会していたら、下関市内のカットインパラダイス(理容店)の中山さんから今朝その情報を得た。
山奥ねその場所に行った。高齢のヒッピー族のような男が場所の管理をしていた。来週水曜日に軽四トラック満載(3キロメートル)ぐらいの網をもらえるようになった。
美祢まで帰り「よしの」で腰を下ろして話していたら笑顔の加奈ちゃんが入ってきた。わたしの車が目にとまったから。吉野さんに紹介できた。
吉野夫妻が今週の店休日に宇部の松原酒店を訪れた(奥さん同士が福島県)。店主のホタテマンは7月豪雨災害の萩市にボランティアに出かけておられた。その奉仕についてがきょうの話題になった。
わたしは、災害が発生するたびにボランティア募集をする昨今に違和感がある。もちろん松原さんのような献身的な人たちには敬意しかない。
しかし、これだけ自然災害(竜巻も)が頻発するような日本になったからには、ボランティアに頼ることより、例えば自己完結が訓練され機動力を持ち合わせている自衛隊が被災地に逗留し、そこにボランティアも加わるような体制をつくることが一番力になると思っている。
美祢から農園までの峠越えでサルの集団に遭遇した。
今朝の国道2号線。前のトラックに「V8亀頭エンジン」のステッカーに笑った。ドライバーは短亀頭にちがいない。

宇部掃除に学ぶ会へ寄稿( 原文)

宇部掃除に学ぶ会200回に寄せて

お掃除にであうまえ、よい生き方の願望はありながら、ブレーキのない毎日を過ごしていた。心を定規にあてることができれば、まっすぐか、曲がっているのかわかる。その定規をさがして長年、著名な人の講演を聴いたりや著書を読んだりと、いろいろ試みたがすぐに取り組んでみようという内容はなかった。

便器を磨いて心も磨く会がある。誰から聞いたのかいまは覚えていない。それを体験してみたい好奇心に、どこで誰に会えばそれが叶うかアンテナをはっていたら、イエローハットに手がかりがあると知り、当時山口県から九州一帯にイエローハット店舗を展開されていた垣内社長を山口市に訪ねた。
そこで、広島掃除に学ぶ会が近々に鍵山先生(当時イエローハット社長)を広島市にお招きして講演会を開催されると日時を教えていただいた。

ひとり広島に行き、中国新聞社ホールで講演「箸よく盤水をまわす」箸で盤水の水をまわすと最初は水は動かないが、根気よく続けると盤水の水は回りだす。小さなことでも続ければ、やがておおきな力になる。トイレ掃除もひとりから始めて続けるうちに自分の生き方がかわり、そのことで会社や家庭もかわりはじめると感動的な講演を拝聴し、探していたものを見つけた気がした。心を磨く掃除をやると決めた。
講演会場で広島掃除の会代表の井辻さん(人生を楽しく生きる達人)が北京掃除に学ぶ会を案内され、その場で申し込みをした。

その後、山口市のイエローハット物流センターの貞方所長を訪ねてセンターで毎朝行われる掃除に加えていただき、床やタイルに両手をついての掃除。歯ブラシやタオルをぞんぶんに使う掃除を体験するうちに、仲間を募り宇部で会をはじめたいと思うようになった。貞方所長に会をつくりたいと相談をした。宇部で会をはじめるには、参加者が増えても便器の数が足りる学校がよいと貞方所長からアドバイスをいただき、市内の学校いくつかを歩き掃除会場の提供をお願いしたが相手にもされなかった。理由は、学校の便器を磨くため外部の者を入れたことがない。しかも休日に鍵をあけることは職員の余計な仕事になる。生徒のトイレは生徒にさせる。教師のトイレは業者に委託されていた。

それでも借りなければはじまらない悩みを東岐波の磯村千代子先生(元小学校教師)に相談に行った「わかった!」とその足で東岐波小学校校長室に向かわれた。わたしも同席して校長から承諾を得た。それは運動場にある古い便所。運動会で使用するぐらいで掃除はされていない。鍵をあける必要はない。つまり勝手にやりなさいということである。

記念すべき「第一回宇部掃除に学ぶ会」は、菊川画廊の菊川さん。高山清さん。貞方所長。わたし夫婦の5名でスタートした。東岐波小学校のくみ取り便所は汚れておりたいへん苦労した記憶がある。
掃除をおえて間もなく、宇部市教育委員会の方から個人的な手紙が届いた。内容は、私たちが東岐波小学校で行ったことは非日常的すぎる行為である。という批判的なことだった。反論はせず無視をした。
当時、岐阜の大正村で全国の有志が鍵山先生を中心に掃除を発足してあまり日がたたない時期であり、いろいろな会合で掃除に対する地域の無理解を聞いていたから、その手紙に驚くことも立腹することもなく、むしろ噂どおりの反応があったことに達成感があった。

お湯を沸かすガスの大きな火口とアルミのずん胴鍋は垣内さんから寄贈いただいた。掃除会場まで参加者を誘導するたくさんの種類の看板(電柱に針金でつける)は広島市事業立地の佐古社長から寄贈いただいた。
毎月、東岐波小学校の便器に数名で向き合っているうちに体験してみたいという方があらわれるようになった。掃除が終わり体験発表もプログラムになり、その後の朝食は家内の担当になった。

ある団体の役職をいただき、定期的に会議に出るようになった。あるとき提案した「会議のまえ、短い時間でも会場周辺の清掃をしませんか」と。掃除が大切なことぐらいは知っていると言わんばかりの失笑をかった「知っている」と「やっている」のちがいをのべても無駄な空気だった。わたしも「知っている」の側に以前はいたから笑いは理解できた。

鍵山先生にはたくさんのご指導を頂戴した。それを言葉にすれば「謙虚」。わたしにまで深々と頭を下げられる。掃除に学ぶ会草創期の全国の志たかく生きておられる方々にも親しくしていただき会報「清風掃々」発刊メンバーにも加えていただいたことは人生の金メダルと思っている。

50回の記念掃除は、県鴻城高校を会場に盛大に催された。この会をもってわたしは宇部の会から離れ、農園でハンディを持つ人と鶏を飼うことに専念をはじめた。
以来約13年。自宅に戻らず農園で寝起きしている。食事の都度食器を洗い棚にしまう。台所は使う度に磨く。トイレと風呂も新品にちかい輝きが維持できている。
当たり前のことができるわたしにお掃除が育ててくれた。

宮川さんから依頼を受け、200回記念のお祝いに、わたしの思い出を書かせていただきました。
お掃除仲間のみなさんありがとうございます。
足立進

加奈ちゃんの銀メダル

「美祢ご当地ぶちうまB級グルメコンテスト」に出店した加奈ちゃんから準優勝の喜びメールが昨夜メール着信。農園日記ご覧の方も来店されたとのこと。どなたか存じませんが、娘同様の加奈ちゃんの応援ありがとうございます。

今朝の冷え込み12度。台風一過で秋が深まった実感。犬たちもまるくなって寝ていた。
火曜日の配達をおえて早い晩酌は麦焼酎は紅乙女酒造「河童九千坊」飲み口がソフトで一升が3日のペース。晩酌の最中に犬が吠える。軽トラで熊のような大男が鶏糞をとりに来た。昨年、消防の救命救急士を退官された地元のMさん。きょうは涼しい風にあたりながら長話ができた。
過酷な事故や火災現場と30数年向き合った人は寡黙になるのだと感じた。Mさんが勤務地は国道2号線のなかでも重大交通事故が頻繁に発生する峠がある。
余生は百姓しながら犬と遊んで、昔話はしないで生きていきたい。悲惨な現場を体験したから、そのことで人間の本性もボクは知っている。
たくさん表彰は受けたが部下がボクの命令で動いただけで、ボクの表彰と思ってはいない。
西君の事故。Mさんが指揮をとり、農園から宇部の医大に搬送しながら、宇部からドクターを乗せた救急車を走らせ、合流地点で西君の救急車にドクターが乗って走った。そのお礼もできた。
大勢集まる宴会に来ませんか。と農園宴会に誘ったら、静かに呑むのが好きですから。
わたしには到底できない現場をこなしてこられた自慢話は一切なく、ご病気の奥さまをささえて生きたいと話された。
わたしより1歳若いこの方といつか秋の夜長を呑みあかしたいとおもった。

ラジオは台風情報

台風にともなう豪雨で、河川が増水し各地に避難指示が出されるニュースをラジオで聞きながら走った。特に京都は26万人が避難と知り長女家族が心配。「災害伝言ダイヤル」が設置されたので心配になり、メールで安否を尋ねたら即返信が届いた。住まいの太秦に川はないから心配なく。
「美祢ご当地ぶちうまB級グルメコンテスト」が道の駅「於福」で開催。14店舗出店のなかに加奈ちゃんは創作パン(秋芳梨をつかったカレースティック)でエントリーした。大勢が設営中の朝9時ごろ会場前を通過。加奈ちゃんに声援届けたいが駐車場も混雑だった。
午後1時、厚狭を配達中に美祢の黄正吉さんから着信「報告じゃけど。加奈ちゃん、ええ顔して売りよった。主人が手伝い、主人のお母さんがそばで子守りしよった」短い電話。実は正吉さん日にちを間違え昨日も加奈ちゃん応援に行ってくれた。わたしは週末の軽トラ市でパンを買おう。
近々、10年ぶりの出産Nさんにプレゼント、童心社の絵本「うまれてきてくれてありがとう」はじめて絵本を買い求めた。リボンもつけてもらった。手渡しは明日。

酒が恋しい母

8時。母の朝食に間に合った。数日まえから足が痛いらしく車椅子。農園の栗で家内が栗きんとんをつくってくれた「おいしい」を連発した。きのう夕食で焼き魚が出た。酒がとても欲しかったと言う。わたしの歳を尋ねた。しばらくして母は自分の齢を口にした。あんたの歳に33を足したらわたしの歳がわかる。長話ができた。
山口市内の配達を済ませ、昼ごはんと缶ビールで昼寝。
午後から草刈り。この草刈りを終たら草の成長はグッと鈍る。このまま放置して10月中ごろに最後の草刈りをしたら春まで休める。
今夜は昨夜の録画「ラスト侍」を楽しむ。

ケニアに感動

水元さん主催。昨夜のケニアはよかった。
早川千晶という女性が20数年、100万人ともいわれるスラムに定住して、いま500人の孤児と生活をともにされている報告会だった。
汚物などを始末するインフラは皆無。その映像から臭いがしないから直視できた。食べられないから子供を捨てる親。食べられなくてもその子供をひろって育てる人。麻薬に暴力が貧困を土台にひろがるスラムで毎日、懸命に生きる人々の映像が展開した。
わたしの涙腺がゆるんだ場面は、東北の震災があった2日あと、孤児たちが肉親や家屋を失った日本人に祈りを捧げ哀悼の歌を涙をこぼして歌う映像だった。サンパウロに残る奴隷市場やアパルトヘイトの現実を見ても、胸に痛みを感じる程度のわたし。祈りも涙もなかった。
ゴミ袋から食べ物を得ていた子供たちが涙をこぼして祈っていた。
やさしさ。心のゆたかさは富と反比例かもしれない。風呂がなかったので炭住(炭鉱住宅)の風呂に母と数日おきに通った。よくはたいて着ないとノミが下着に着いた。風呂上がりに魚屋に寄り買い物を母はした。魚屋のおばさんが海ホウズキを吹いてみせてくれて遊んだ記憶がある。不衛生だったが楽しかった。
便利で快適な生活を求めて、あのケニアの子供たちのような瞳を失ったのではないかと思った。

午後からそうとう汗をかいて草刈りをした。

猫は命拾い

山口市内美容室。ネコの弱い声が聞こえた。段ボールの子猫は生後まもないようす。きのう近くでカラスに襲われているところを助けた。しかしスタッフの誰も猫の飼育は知らない。
愛護団体に問い合わせたら猫の里親さがしは困難と言われた。ミルクの与え方を教えてもらった。トイレのしつけまでを受け持つボランティアがあるようで連絡をしている。美容室はやさしいスタッフの猫騒動。
周南の配達をおえて農園にもどり、犬の世話など済ませ、シャワーで着替えて、いま宇部市内キリスト教会。これからアフリカ音楽演奏と、ケニアのスラムに生きる子供の支援を現地に定住してされている女性の講演。水元さんの主催。

農業政策変ですよ

残暑の木曜日。最後は美祢のうどん店。
TPP交渉の是非はよくわからない「よしの」さんは賛成の持論を展開された。
農園の敷地は7反(2100坪)ある。それだけの面積は必要ないが、田畑を売り買いするとき5反(1500坪)が最低基準になる。つまり、家庭菜園の場を50坪お百姓さんから買うわけにはならない法律がある。5反を買うには、わたしが農家になる手続きが要る。年間100数十日百姓をする。農機具は農業委員会のいうとおりの種類と数がある(申請は嘘でもよい)その形式のレールで運ぶ。
農園近くの農家。後継ぎの息子(教員)は米は買う。百姓はやらないと宣言した。じいちゃんは300数万円のトラクターを買い「米はつくらんでよいから、年に数回このトラクターで土をおこし雑草の管理はやってくれ、田を荒らしたら隣接の人から苦情が出る」
耕作放棄したいができない人。耕作したいができない人。
このいびつな農業政策を根底からかえる時期はくるだろう。ならば早く手をつけるべきだと思うと話した。
奥さんが海老天3本も揚げてくれたので、油で口数の回転がよかった。

いま、在日として

朝鮮学校にNHKカメラが入り「いま、在日として」を番組にした。
知らないということは想像になり誤解になると見終わって感じた。大阪東成区、中大阪朝鮮初級学校には、祖国の指導者の写真はなく、反日教育や思想的な教育もなく、母国語が使われている以外は日本の学校との違いはないように見えた。日本で在日として生きるには祖国に誇りをもたなければならないと教師が語った。
それはわれわれも会津や長州、薩摩というように自分のルーツに誇りをを持つようなものであろうと解釈した。
サンパウロの掃除に参加したとき、日系三世や四世の人たちから歓待された。日本人としての誇りをブラジルでしっかり抱いておられた。わたしより日本人と思った。
在特会なる団体が差別的なデモをする。北朝鮮がミサイルを発射すれば通学が危険になる。小学生の男子が「ボクは日本人より人間としてランクが低いのかな」とつぶやいた。わたしは、日本人の大人として、子供にこんな言葉を使わせたことにほんとうに申し訳なく思った。
その子たちに朝鮮人として誇りを持たす教育のひとつに、ベルリン五輪マラソン優勝のソン・ギジョンの生き方が教師から語られた。ここで「じぇじぇじぇ!」ソン・ギジョンは美祢の黄一族の身内である。すぐに正吉さんに電話で朝鮮学校でソン・ギジョンが語られていると伝えたら、たいそう喜ばれた。番組はNHKオンデマンド配信されているかもしれない。
私が母子家庭だったことは運命。在日の人も運命。運命は変えられない。だから強く生きていける。

晩酌がうまいワケ

火曜日は山口市。加奈ちゃんから預かった数枚のパン教室案内をどなたに渡そうかと考えながらスタートした。
エステのNさんに説明しながら手渡したら「わたしは加奈ちゃんのブログを読んでいた。加奈ちゃんが市内のペット用品店で販売されることを、この店の女性オーナーと知り合いだから教えてもらった。けれども、その日に買いに行けなかった。ブログはそれ以来みていました」きょうは野菜工房(オーガニック)の店長に加奈ちゃんを紹介すると言うと「Y店長は知り合いですからわたしからもお願いしておきます」と加奈ちゃんで会話がはずんだ。
数ヶ所でパンの案内をして最後は食育に考えをもたれている小郡のTさんに渡した。
農園に戻った直後に加奈ちゃんから電話が着信。レストラン「うさぎ」でパンが採用決定の喜びの声。続いて着信は小郡のTさん「ぜひ加奈ちゃんを紹介してください」農園で引き合わせることを約束した。
加奈ちゃんのパン教室が繁盛のお手伝いは、わたしの儲けとは縁がない。しかし、加奈ちゃんを発信することで周囲に喜びの輪がひろがる。これが「わたし流」今夜はうまい晩酌をしている。
半月まえガソリンスタンドの若者がワイパーを売るチラシのコピーを考えていた。パソコン画面をみたら話しにならないから「ワイパーいつ換える。今でしょう!」と口をはさんだら以後バッテリー販売のコピーなどにつきあわされた。数日まえに10月から予約受付の冬タイヤのコピーを考えてくれと甘える。「わかった。秘伝の中国方式を教えるが決して人には言うな」と秘伝を授けた。
カー用品販売店の冬タイヤコピーをネットで盗んで使う。これが中国方式。きょう完成したモノを見た。

落雷の神秘

いまが刈り取り時期をむかえているコシヒカリやヒノヒカリが長雨で倒れている。収穫には人手が要るらしい。なぜ今年はこれだけも稲が倒れたのか素朴な問いかけを農家で質問。意外な答えだった。
今年は落雷が多かったからではじまり、わたしは「じぇじぇじぇ」大気に存在するある物質は1200度の温度で窒素に変化する。窒素・リン酸・カリウムの「窒素」落雷のプラズマは軽くその温度以上あるから、雨のなかに多量の窒素(栄養)が含まれる。栄養が降ってくればよいではないか。
ところが最近の米づくりは手間をかけないように肥料は「一発」と呼ばれる、まさに一回の肥料が効き目を持続する肥料を使う。そこに栄養満点の雨が降ると稲はどんどん成長するから倒れる。
ボクは面倒でも稲の葉の色をみて、成長をみながら肥料を何度も入れるからコシヒカリが倒れていない。
手を抜いて稼ぐことがもてはやされる風潮があるが、やはり手をかけないと最後に手がかかることになる。

昨夜の農園宴会で、ひたすらお好み焼きを焼いた藤野先生(高校教師)が案内状を持参された。以前もお越しくださり古事記についてソフトに教えてくださいました。能楽師の安田登先生が、ふたたび吉部八幡宮本殿を会場に、子供も大人もわかる、いま大切な生き方をお話しされる。
9月26日。夕方6時半から9時まで。会費はお賽銭。
ネットで「能楽師 安田登」をご覧ください。先生の正体がわかります。仕掛人は数学の藤野先生です。
問い合わせはわたしで受けます。

バカな若者で大笑い

6時まえ、ハッピーと歩いていたら若者二人が車からおりてルアーを持って向かってきた。軽装のうえサンダル履きが気になる「おはよう」と声をかけたらくわえタバコで会釈した。ブトやマムシがいるので「その格好はあぶない」とおせっかい「平気」と土手から藪を抜けて川原に出て行った。しばらくすると「わーっ!」と大声が聞こえ、見たら一人が川のなかを奇声をあげて水しぶきで全力で走る。折り返して血相を変えてまだ走る「なにか!」と尋ねたら「蜂が追いかけて!」
釣竿とサンダルは川に流され、ずぶ濡れで土手にあがってきた。あきれた若者。
母は体調がよい。腎臓が悪く足がむくんでおり週に二度マッサージを受けていたが、足の様子がよいからマッサージは週に一回にしてみましょうと言われた。
午後からトイレ掃除と草刈りに汗をかいた。今夜は、美祢うどんの吉野夫婦。山口市の美容室パッションの中井夫婦に数学教師の藤野先生が来園。牧君からいただいた日南市の「かめしずく」(20度芋焼酎)を開封。藤野先生特製の広島風お好み焼き。家内は秋刀魚を圧力鍋料理など。秋刀魚料理いろいろ。中井さんはギター弾き語り。吉野さんはまた歴史談義が長くなるだろう。

歴史の勉強

県セミナーパーク講堂で開催「長州藩と会津藩」講師 山口県地方史学会会長 小山良昌氏。第二回を糸賀社長と聴講した。
戊辰戦争以後、現在まで語り継がれる会津藩の薩長への怨み。そのすべてが会津藩士の子孫が語り継いだり、小説とした史実にもとづかないものである。この柱で全二回の講演をされた。
ふたつほど代表的な怨念話を資料から紹介。
会津曰く
敗戦後、長州藩により極寒不毛の地 斗南に追いやられ飢餓生活を強いられた。
史実
明治2年9月、新政府は会津松平家再興を内示し、陸奥国3郡(斗南)か、会津藩旧領地の猪苗代地の二者択一を提示。会津藩は重臣協議の上、みずから斗南の地を選んだ(旧領地の猪苗代では藩に対する農民の反感あり)

会津曰く
会津藩は賊軍だから、長州藩は遺体の埋葬を許さず長期間放置させられた。
史実
「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」の内容に「彼我の戦死者(官軍と会津双方の戦死者)に対する一切の処置を禁止する」とあり、会津藩の死者のみの埋葬を禁じたものではない。死体から金品剥ぎ取りを防止する一時的な処置はあった。戦後の会津民政を任され、遺体埋葬も担当した会津民政局には、長州藩関係者は皆無だった。

付け加えると
2004年発行。郡山市勢要覧 市制施行80周年合併記念号の記述に以下の記述がある

郡山商人たちは、官軍を「官軍さま」。会津兵を「会賊」と呼び捨てた。8月7日に会津兵の大襲撃で、街の中心1700棟が焼け落ちた。戦火が北上するにしたがい会津兵の放火や略奪による大きな被害を受けた。

歴史はこれほどわかりにくい。そして今動いているシリア情勢も、科学兵器なのか地下資源獲得でアメリカが動いているのか大義は見えない。

朝のテケテケ

快適な睡眠がとれ3時に起きた。昨夜録画SONGS「ザ・ベンチャーズ」を再生した。1962年初来日、子供だったわたしもあの「テケテケ」は強い印象がありキャラバン、アパッチ、ダイヤモンドヘッドと演奏が続くと昭和にタイムスリップできた。
配達まえのウォーキングが雨で数日中断したが、今朝はいつもの坂道4往復で軽く汗をかいた。
山口市内からスタート。防府市内を走り南陽市の配達をした。配達さきでは「涼しくなりましたね」が挨拶。猛暑を耐えてよけいに涼しさがありがたい「竜巻はアメリカと思っていましたが」と言われた。
わたしが受信している「山口県防災情報」からも最近は頻繁に竜巻注意が携帯メールに届く。注意のしかたがわからない「落石注意」の看板と同じで竜巻の注意を促されても対処がわからない。
あの竜巻映像を見たらとても対処は困難と思える。
自然の災害から命を守る啓蒙が必要な時代になった。

夏の疲れを感じた木曜日

涼しいより、肌寒さを感じる朝をむかえた。
長府のイタリア料理店に定刻の8時半に着いた。入り口に箱を届けておくルール。その入り口に「臨時休業」の看板があった。きのうが休業だったのか、きょうが休業なのか判断できない。箱は荷台に戻して先を急いだ。
わたしの仕事(責任)はこのお店が玉子で困らないこと。看板をみて持ち帰れば子供の使い。ただし、きょう1時に菊川のお客さまが「紹介したい人がいる」と1時に着かなければならない。
10時にレストランに電話したら休みはきのうで玉子は欲しい。
急ぎ足で下関を走りお昼に長府。満席のお客さまだった。そこから菊川まで山越えで走り、約束の1時に着くことができた。新規のお客さまに挨拶を終えてから弁当を食べた。
酷暑の疲れが出ているのか木曜日のコース後半がえらい。美祢まで帰り加奈ちゃんに納品。きょうのパン教室でわたしにプレゼント用のパンを焼いてくれていた。「よしの」でいつもの歴史談義。このふたつで元気が回復した。
高見さんの「ふく福音頭」CDは約束どおり松村社長と中尾市長に届くようにできた。

雨があがった水曜日

朝ごはんと弁当をつくる早朝は豪雨。きょうも雨具を着込んでスタートした。
水曜日は、いつもトイレが使いやすい市内パチンコ店に停めて早めの昼ごはん。午後1時に、小野田赤崎の松原分校に行くことにしている。それより早く着けばこかげに停めてリクライニングを倒して寝ることができる。きょうは10分熟睡できた。
午後から雨があがり長靴も雨具もやめた。帰り道で散髪をした。白髪が多くなり「染めませんか」と長々すすめられた。わたしの場合は歳相応でよいと思っているから「これでええです」と断った。
面白い川柳をみつけたらメモしている。いつか頭の体操でわたしも川柳楽しみたい願望あり。少し以下紹介

焼き飯はとてもおいしいラーメン屋

アベックの声がとまって気にかかる

うっかりしゲストの歌にカネふたつ

上限は幾つなんだろ熟女って

雨宿りが羨ましく

朝からのシトシト雨。山口市内向けにスタートをしてすぐに豪雨になった。長靴ははいていたが上着はヤッケ。本降りの雨には無理。中国縦貫道路が上を走るトンネルの路肩に停めて雨具の上下を着た。
雨の山口市内。中学生らしいカップルが激しい雨で自転車をとめて雨宿り。びしょ濡れでも笑いながらオニギリを食べていた。若さがとても羨ましくみえた。
二回サンマを買ったけれど、安かろう悪かろう。脂がなかった。夕方、つい魚屋の前で見たら一匹400円。店員さんに安かったが悪かったと話したら「実は、あれは小さいから安かった。きょうのは大きいから自信あります」一匹買って焼いたら最高に旨かった。

加奈ちゃんのパン屋さん。今月の出店予定。お仲間にご紹介ください。(彼女のメール原文)不明なことはわたしが中継します。

9月7日(土)一の坂川・サンポヤにて10時〜

9月16日(祝月) B級グルメグランプリ「美祢市ご当地 ぶちうまグルメコレクション」 
美祢市で活動する15店舗が300円で地産・地消のグルメを出品し、チャンピョンを決めるイベントです。
私は秋芳なしを使った梨カレーのスティックパンを考えました。

9月21日(土) 美祢軽トラ朝市 9時〜12時

9月26日(木)  山口市龍福寺 10時半〜12時

リハビリは裏切らない

「ふく福音頭」の作詞は美祢小杉の高見さん。田んぼまで足を運び「新聞でみた。今年の紅白間違いない」と言ったら「あんたがいつか、せっかくの詞だから曲をつけたらどうかと言うたろうが」わたしが背中を押したとじいちゃんは言う。100枚CDを自主制作したが配るあてもない「わかった。下関の福なら、総大将は唐戸魚市場の松村社長。松村社長経由で中尾市長。二枚預からせてもらおう。ただし、聴いてもらうことが目的でよければ」じいちゃん大喜びで、その二枚とわたしに一枚いただいた。木曜日にお届けする。なかなか楽しい音頭と思うが紅白は。
9月になりラジオは、午前は藤井彩子。午後は山田まりや。藤井アナは8月、再婚旅行で行ったマチュピチュ話題で盛り上がり。
山田まりやの番組に永六輔さんが90分出演した。46年続いたラジオ番組「誰かとどこかで」が今月終了。一万数千回の番組で休んだことは一度もないが、パーキソン病の進行で言葉が不自由になられたからの終了。わたしが永さんを尊敬したのは、永さんに民族学習の宮本常一がいつも「現場で考えろ」と言われ、東北の震災現場をすぐに不自由な身体で精力的にまわられたこと。

病気になっても、病人になるな。

リハビリは裏切らない
このふたつの言葉を書き留めた。

気持ちのよい日曜日

きのう晩酌真っ最中に美人の水元さん屋久島焼酎をさげて来園。
10年ほど前「東京ギンガ堂」主宰、脚本家・演出家の品川能正さんが宇部での舞台を催され、その応援団たちが農園に集まり宴会をしたとき水元さんも来た。この地域で「良い」イベントがあると彼女が走り回る。農園日記を携帯電話でおこし彼女にメールしたあとは10年ちかくメンテナンスをしてくれた。儲からないことを懸命にやる人はわたしの好みで、まさしく彼女もその一人。
ケニアのスラムに定住(24年)し過酷な現実のなかで生きる子供の支援をされている早川千昌さんのケニア報告とアフリカ楽器演奏を聴く催しを今月13日に計画して一生懸命。前売り千円。わたしが問い合わせなど引き受けます。
加奈ちゃんのパン屋さんが空港で1日開店。日記を読まれて、たくさん問い合わせのメールをいただいた。わたしは母の面会など多忙な日曜日。空港が気になるが行けない。お昼に水元さんからメール「もう売り切れですよ!あっ、松原(ホタテ)夫妻が来られました」と実況メール。松原さんから「水元さんからパンわけてもらいました。加奈ちゃんと話ができました」そのあと泊野さんから「加奈ちゃんパン買いました!」そのあと今村さんから「下関から飛ばして行きましたがパンは売り切れ。無念」のメール。そして加奈ちゃんからお礼のメールも届いた。大勢のかたが雨のなか空港までパンを買うことで加奈ちゃんの応援をしてくださったことが嬉しくてしかたがない。
■日記の9月写真。わたしの携帯電話でみたら「×」ですが、クリックしたら磯村千代子先生が笑っています。