プロジェクトX

先日「プロジェクトX」第一回目の番組(巨大台風から日本を守れ)が特別再放送され録画した。
昭和34年の伊勢湾台風では83万戸が倒壊。5千人の死者がでた。当時は3時間前の気象予報しか出来ない、それがもたらした結果でもあった。24時間前に気象の予報が出せれば最悪にはならない。
富士山頂に半径800キロメートルを映し出すレーダードーム建設の国家プロジェクトが始動した。その関係者9000名の総責任者は気象庁藤原寛人だった。
馬方衆と呼ばれた荷揚げの力では500トンもの資材が運べず、途中からブルトーザーで山頂まで運搬もした。数々のハードルを解決し、昭和39年8月に工場で組み立て、100メートルの風速に耐えうるドームの骨組みを空輸する場面になった。骨組み重量は620キロに対してヘリコプターの揚力は450キロが限界。しかも山頂には複雑な気流がある。それができる男は日本に一人しかいない。元海軍航空隊で零戦パイロット(特攻)の養成をした神田真三が抜てきされた。
気象庁の藤原が山頂気象条件を入念に調べた結果、8月15日(終戦記念日)が決行日と定まった。
パイロットの神田は機体を軽くするためドアや副操縦席などを取り払いドームを吊り上げ舞い上がった。そして神業のようなホバリングで任務を果たした。帰還したとき出迎えの人混みに操縦席で万感こみ上げ2分間姿をあらわさなかった「特攻隊の人に、国のために自分も命懸けで働くということで少しは借りを返せた」と回想された。
完成の2年後、藤原寛人は気象庁を退職。新田次郎のペンネームで作家となった。
わたしが若いころ、明治の時代に私費を投じて富士山頂に観測小屋をつくり、関東一円の気象予報をした野中到夫妻を描いた新田次郎「芙蓉の人」を読み、生き方に感激の涙がでた。八甲田山死の彷徨・剣岳・アラスカ物語に鳥島噴火を題材にした火の島。たくさんの作品を読んだ。文壇デビューは昭和26年の「海流」あの新田次郎が、レーダードームの責任者だったことに驚いた。
「男は、一生に一度でよいから自慢できる仕事をせよ。富士山こそその仕事である」
現在、ドームの隅にある銅板には携わった男、全員の氏名が刻まれている。
関心あるかたは、10月4日午前1時にもう一度放送があります。