月別アーカイブ: 2017年7月

朝6時集合

朝6時。気温23度。晴れ。最高気温33度。

昨夜、長男が「明日は朝6時学校集合、始発で言っても間に合わん」とワァワァ言っていた。何度も、こんな集合時間があったと思うが、私は妻に任せきりで知らん顔をしていた。

私も今朝は気合を入れて、鶏舎に入る前に草刈りをしようと決めていたので、「ワシが乗せてやる」と長男が高校入学してから初めて鼻息荒く宣言して寝た。

明日からのインターハイで長男の所属するサッカー部が出場する。残念ながら我が息子は膝の怪我でAチームに入ることは叶わず応援席からの大会出場。

Aチームは11時に学校を出発し福岡空港から仙台市へ。それ以外の部員は18時に学校を出発し車中泊で。

昨日の練習で監督の「怒りスイッチ」が入る事由があったらしく、Aチーム以外の部員は朝6時からトレーニング、練習試合をしてからバスに乗るそうである。

体の故障がある部員、つまり「ケガ人」はサポートに回るので、他の部員より先にグランド入りし、最後に帰ることが慣習のようで、我が家の場合、始発最終電車になることが多かった。

本人もよく辛抱したが、家内もよく辛抱した。私が甘やかしたツケもあるかもしれない。

中学校を卒業する際に、「どんな理不尽なことがあってもサッカーだけは辞めるな」と担任から息子に熱いメッセージを頂いた。

私自身、サッカーのことは何も分からないし、この大会で初戦を戦う高校も知らない。

ただ、家庭で話題にしたのは指導して下さる方への「感謝の気持ち」を忘れないこと。これはスポ少時代に長年、子供と家庭を見てきた「Gちゃんコーチ」が老婆心ながら保護者に伝え続けてくれた。

まぁ、本人がどう感じているかも変わらないが、その思いが伝わっていることだけは願いたい。

6時集合で「ケガ人」の息子がギリギリで到着してはマズイと思い4時半に車のエンジンをかけ、助手席を掃除する。

家内からは「30分で着くから」と促されたが、何分、私にとっては「はじめてのお遣い」。

それほどアクセルを踏まなかったが、家内が言ったとおり、30分弱で学校に一番のりで到着。途中で息子が「ここを左」、「ここを右」などとナビしながら。

集合時間より30分以上早かったので、初めてグランドを目の前に見た。誰もいない人口芝のグリーンとトラックのブラウンがキレイで、パンフレットでしか見たことない立派な校舎にも驚いた。

高校に入学して、息子がボールを蹴る姿を一度も見たことがないが、私の車を降り、「じゃあね」と言って、大きなバックを二つ、肩にかけてグリーンのグラウンドに入る後ろ姿は清々しかった。

多くの方々に指導を受け、励まされ、ここまで歩んで来れたことに感謝しかない。ありがとうございます。

あだちまさし。

そりゃぁ〜もうぉ

朝6時。気温25度。晴れ。最高気温29度。暑い。暑い・・・

風通しや日差しの加減もあるので体感気温は30度は超えていたように感じる。

月曜から水曜日まで選別パートのF井さんが今週はアルミの脚立持参で出勤。農作業後、予防接種のため通院するのに汗がひかないので、途中、本屋で立ち読みしながら体を冷やしたら夏風邪を引いたとのこと。

風が吹かない日は作業場での立ち仕事も、かなり体力勝負なので、辛くなったら脚立を背もたれにして仕事をしようと自宅から持参された。

病院で点滴をうっての勤務jで、何とか3日間、アルミ脚立の世話にならずに済んだと安堵の表情で職場を後にされた。3日間、無理を押して仕事をさせ申し訳なかった。

昨日は「ウナギの日」。配達先などで視覚と嗅覚を駆使してウナギを味わった。

二週間ほど前、Fさんと歌謡食事会をし、すき家で「うな牛」を二人で胃袋に入れたので、グッと我慢して視覚と嗅覚のみ。

毎年恒例だが、吉部の仕出屋「柳屋」のカウンターには引き取り主を待つ「蒲焼」が行列を作る。一本一本にドコドコのダレ。マルマルマルマル円と札が貼られギッシリ並んでいる。

視覚で札の名前を見ながら、鼻の穴を大きく開き大きな深呼吸をする。並べられたウナギの札に「荒滝Fさま」と一本あった。

新天町にある八百屋は、富裕層の方が通う鮮魚店内にある。ここでも毎年恒例で、店先で炭火でウナギを焼き上げる。タマゴを八百屋に納品し、しばらくウナギが香ばしく焼かれる様を拝見する。

やはり鼻の穴は全開で、全身に蒲焼臭を漂わせ店を後にした。

八百屋で配達を終え、すぐそばのスーパーで買い物。鮮魚売場にはやはり「ウナギ」。国産、中国産、あと大きさによって値段が違う。

買い求めるつもりはなかったが、値段を確認しながら、長い間、ウナギと睨めっこをした。私の隣で同じように険しい眼差しで値札を凝視している婆さんから

「何でこれだけ値段が違うのか?艶か味か?大きさか?」と真剣な顔で質問されたので、「ジャパンかチャイナですよ」と応えると「ナルホド」と婆さんが深く頷き。

今朝、配達前にFさんと少し打ち合わせをし、「夕べは柳屋のウナギは食うたか?」と問うと「ハイッ」と気持ちよい返事。

「美味かったか?すき家のうな牛より?」と更に尋ねると、「そりゃぁ〜もうぉ」。

「そりゃぁ〜もうぉ」で丼のメシを胃袋に入れる彼の姿が想像でき、おかしかった。

あだちまさし。

交換ノート

聴覚障害がある「みゆきさん」と続けている「交換ノート」が最後のページになった。

いま使っているノートは昨年4月からの13冊目。

先日、いつからノートを始めたか尋ねたところ「2004年5月6日木曜日からです」と返事があった。12冊の過去ノートは彼女が保管している。

一日の仕事、死鶏を見つけた鶏舎とその羽数、3日先までの天気、あと彼女が贔屓するジャイアンツの試合結果や、昨夜観たテレビ番組。休日は朝起きてからの一日の様子。箇条書きで4行程度書き込みがあり、昼休み後に渡され、私が一言二言コメントして返す。

彼女は365日。私は週5日。年に数回、彼女の母親から書き込みがある。

2004年、彼女の近所に住む市会議員から「聴覚障害がある女性が仕事を探していますが」という連絡があり、彼女の自宅を訪ね、家族が揃う夕食前の食卓で話を聞き、仕事の説明をした。それほど人手に困っていたわけでなかったが、母親が「ありがとうざいます」と頭を下げ、様子が飲み込めていない彼女も母親から促され頭を下げた。青白い顔をした22歳の彼女が必死で「ウンウン」と頷く姿は強く記憶している。

帰り際、ビールを飲みながら黙って話しを聞いていた父親が「うちの娘に仕事ができるはずがない」と重い口を開き、何か自分の心の中で「カチン」と音がしたが、「まぁボチボチ仕事を教えて行きますから安心して下さい」と玄関を出た。

初めて伺った家庭の様子を見て、何が自分の気持ちをそうさせたかはわからない。
ただ、今の自分だったら「あぁそうですか」と言って、彼女と共に働くことはなかっただろうと思う。

後々、聞いた話、彼女は小学校3年生から学校に通学している。それまでは自宅で母親と生活していたが、行政が介入して義務教育を受けることになったらしい。小学校、中学校は特殊学級で過ごし、卒業後は22歳まで在宅。家族と近所に住む叔母家族以外に人と触れ合うことはなかった。

家庭の事情は様々で親の願いは「我が子のため」という一心の思い。家庭の形は様々だろうと私は思う。みゆきさんが育ってきた環境を変えることも出来ないし、障害がある子供を持つ親の気持ちは安易に否定できない。まして聴覚障害がある子供の子育てをしたことがない私には。

彼女が農園の仲間になった当初は「手話」を使って、仕事を覚えてもらおうと私もギコチナイ手話を使ったが、細かい指示はどうしても筆談になり、ノートを使い始めたのが「2004年5月6日木曜日」だったのであろう。

イラストを書いたり、色つきペンでアンダーラインを引いたりしながら、仕事の手順を教えたり。13年前に手探りで鶏との仕事を進めながら。今は幾分か私自身も季節によっての作業の進め方を身につけたが、彼女の「ノート」ひた向きな姿勢があったからこそ。

どれだけの文章を彼女が理解してくれるのかも手探り。伝えたいことが伝わらないモドカシサもあったが、理解して出来た仕事を誉め、出来なかった事は私の力量不足と常に自分を戒めた。

「上手に出来たね」と書き込んだことが多かったのか、「○○しました。みゆきは上手」と書いて持ってくる時期もあった。

箇条書きの仕事の文章には彼女の「気持ち」はない。何度か「気持ち」や「思い」を書くよう促したことがあったが、私の力不足か仕事に関しては変化が見られず。

ただ、休日に祭りや花火大会に行った時、「たくさん」とか「キレイだった」とか「美味しかった」とか書いてある時は私も嬉しくなり、色ペンでアンダーラインを引き二重丸をして「みゆきさんの気持ちがよく分かりました」と返信する。

彼女が通勤するにあたり、バス停から農園までの4、5軒の家庭に「耳が聞こえない女性が通りますので少しご配慮をお願いします」とお願いに回った。

13年間、同じ時間に出勤し、帰宅していく彼女に近所の方の対応も変わってきた。

皆、手話が出来るわけでないが「暑いねぇ」と団扇を扇ぐゼスチャーで労ってくれ、「お疲れ様」と大きく手を振って下さる。それを受けた彼女は精一杯の「目力」と「微笑み」で応える。

何か大きな気負いがあって付き合い始めたわけでなく「まぁボチボチ」と続けてきた積み重ねが次第に大きくなったと実感する。

彼女の生活が「縦」に伸びる支援は農園では出来ていないと思う。ただ、彼女が生きようとする「横」に伸びる「根」を張る手伝いは「ノート」や「仕事」通じて少しは出来たのではないだろうかと私は考える。

13年前に初めてあった彼女の家庭、当時の農園の状況、共にすごした時間、地域の住民の方との関係の変化。当時より、私も二人分、三人分の仕事をするようになり、彼女もまた仕事量が増えた。元気な体があっての事だが、農園の営みを切らさず続けてこられたのも彼女の存在が大きい。

なにより最近感じるのは、彼女に引っ張られている部分が少し増えてきたことである。

少し辛い時間を過ごしている自分に「お前もがんばれ」と言わんばかりの仕事で励ましてくれ、私が見落とした鶏舎の不具合を自分で進んで直してくれたりする。

13年前、「まぁボチボチ」と付き合い始めた聴覚障害がある「みゆきさん」から「気力」をもらう度に、共に働く人への感謝の気持ちが大きくなる。

あだちまさし。

ゼロがつく日はタマゴの日

朝6時。気温22度。雨時々くもり。最高気温29度。

まだ「梅雨明け」の知らせなく、連日、蒸し暑い中での作業が続き、鶏も私たちも今が正念場。

先週の火曜日が湿度マックス、F井さんのデジタル時計の湿度表示が異常な数値をさす。ただ、翌日から気温は上がるが幾分が爽やかな風が作業場を吹きぬけるようになって、いよいよ梅雨明けかと感じていた。

今朝は落雷の大きな音で4時ごろ目が覚める。5時ごろから防災メールがたくさん入り、農園は3時から停電していると父から連絡が入る。

雨雲レーダーを確認すると、そう長く続きそうな雨でないので少し安心し車を出発させた。

茶色の濁流が小野湖へ流れ込む様子を見ながら運転し、幸い、今年の少雨で川の水位はそれほど上昇していなかった。

朝、一番にタマゴを求めに向かいのSさんが。早朝の凄まじい雨の様子を伝えてくれ「もう30分降り続いたら床上まできた」と話して下さる。

60歳前後と思うが、地域では「まこっちゃん」と呼ばれる隣人の話はとても役に立つ。

5月の下旬から神奈川県の会員制フィットネスクラブさんとお取引をはじめた。ヨガが料理教室を行われる女性が美しくなるためのクラブだと思う。

GWに商談で来園して下さり、毎月「0」が付く日が「タマゴの日」で新鮮平飼いタマゴを販売していたが、仕入れ先の養鶏場が廃業され、平飼いタマゴを捜し求めての来園。

毎回の納品数が少々多く、少し時間を頂き、5月末からお取引をはじめ、クラブ員さんの評判が良いらしく、当初の予約数の2倍に発注が増えた。

大変ありがたい限りだが、この時期、鶏が一番苦手な「暑さ」で生産が下降気味なる。

「0」が付く日が「タマゴの日」なので、神奈川県に発送する荷物は「8」が付く日が農園の出荷日。

曜日ごとの予約が大半を占める中、ランダムで「8」の日に大口注文が入るとプレッシャーがかかるが、何とか今日の発送も無事終えた。

暑さと戦いながら、精一杯の産卵を続ける鶏の「タマゴ」がクラブで喜ばれることを願う。

あだちまさし。

昨日は七夕

昨日は「七夕」。

6月中旬、親子で10年くらいお世話になったタマゴのお客さまから、配達を止めて欲しいと電話が入った。

昨年、肺がんが見つかり手術され退院されていたので、ご本人から詳しい話を聞かなかったが、それほど深刻な状況ではないだろうと感じていた。

「6月19日に緩和ケア病棟に移ります」と連絡を受け、電話口で簡単に病状を説明をしてもらった。

この方が入院する国立医療センターで長年、婦長をされた方がお客さまにいるので「緩和ケア病棟」について少し知識を頭に入れ、奥さまに面会予約を入れ、6月19日に伺った。

病状を聞き、頭も心も大変混乱していたが、肺を患っているとのことで長い会話は負担になると思い、気持ちを整理して二つのお願いと、私にできる約束を一つを話させて頂いた。

数えきれないほどの方から慕われている方なので、体調と病棟での生活ぶりを少しお聞きし、息子二人を面会に連れて来て良いかと尋ねると

「ユウトとショウタに話したい事。かけたい言葉が違うので別々に連れて来て欲しい」と頼まれ、部活で帰りが遅い2人を別々に家内が面会に連れて行った。

長男と次男には「緩和ケア病棟」のことは、私の出来る限りの言葉で伝え、どんな「言葉の力」を受けたか分からないが、二人とも、かなりの時間話し込んで帰ってきた。

最近、高校3年生の長男が就職先を探す様子を眺めながら、この方に「大きな心」を育ててもらった「感謝の気持ち」が一層強まり、就職が決まったら一緒に久しぶりに酒を飲みたいと心から願っていた。

寝ても覚めても頭の隅で、この方のことが気になり、体の負担になると思いながら、数日前、初産みタマゴを6個持参し面会した。

その日の朝、ドクターから「面会時間は短くして下さい」と厳しく指摘されたことを冗談まじりに話されたが、見た目にも衰弱ぶりは分かり、短い時間で病棟を後にする。

二度、足を運んだ、静かな時間が流れる「緩和ケア病棟」。50床の個室があるが、私は他の患者さんやご家族と顔を合わせることはなかった。

数日前に訪れた病棟のサロンに「七夕飾り」が飾ってあった。

願い事の短冊には、小さな子供の字で「じいちゃんが早く元気になりますように」とか書いてある短冊が多かったが、

「幸せな時間が一日でも長く続きますように」との短冊が5枚ほどあった。

この願い叶いますようにと、私も強く願った。

あだちまさし。