月別アーカイブ: 2016年5月

今週は降らん

朝6時。気温17度。霧のち晴れ。2号線厚東駅前から立熊を抜けると霧。農園に近くなるほど霧が濃くなる。太陽は上がっているが、霧のおかげで日差しは届いておらず快適に採卵を始めた。

時間が経つにつれジワリジワリと日差しを感じるようになり、霧がなくなると太陽の日差しと、地面からの水蒸気の板ばさみ。冬の放射冷却を懐かしく感じながら手を動かし、Fさんとバトンタッチ。

IさんはFさんと代わり2日間休み。

鶏たちはといえば、最近、暑さのためか食欲旺盛だった群も、餌のまだら食いが気になりはじめた。いつもの月・火曜日より仕事ができそうなので2日間は私が給餌当番を志願した。
今日は最低限にとどめ、明日は量を見極めながら各鶏舎を回ることに。

週間天気は確認していたが、一応、Fさんにも尋ねると「今週は降らん」とキッパリ。おみくじで大吉を引き当てた時のような爽快感で頼もしく感じた。

昼休みに、土曜日に出席した親戚の結婚式と披露宴の様子を彼から聞き、割と詳しく話してくれたので楽しめた様子で安心。会場が新下関駅前で、母、姉、甥(まぁくん小学2年)の4人で往復新幹線での小旅行。はじめは酒を飲まない彼の運転で往復することも出来るのにと感じたが、今日の話を聞いてみてウンウンと納得した。

やらなくてはいけない仕事はたくさんあるが、梅雨前の晴間を明日から有効に使っていきたい。

今日も一日ありがとうございました。

あだちまさし

鶏を運ぶ

朝6時。気温17度。くもり、霧雨のち小雨。Iさんが午後の採卵を終えるまで、雨の影響を受けず作業ができた。Fさん休みの日曜日だったが、ほぼ予定どおりの仕事ができ感謝。

今朝、農園へ向かう途中、善和付近で馴染みの廃鶏業者さんとすれ違う。日曜日だが小倉・黒崎の食鳥処理場は稼動しているのだろう。4トントラックに2000羽、一かごに10羽詰めたカゴを200ケース積んで移動する。一旦、鶏を積み込むとトラックはノンストップで走る。暑さやストレスに弱い、高体温の鶏の移動は、これからの時期、一番もっとも神経を使う作業になる。

強い日差しで気温が上層する時間帯の運搬は、いかに注意して走っても処理場に着いた時にはグッタリした鶏が数羽ゴミ箱に捨てられる。「死んだら無駄金、無事届けられたら丸儲け」とよく話されていた。産卵効率の悪くなった鶏を運搬する商い。その命を運ぶ作業に心痛されるTさんは尊い。

今日は雛の入荷。豊北町の育雛業者さんが、孵卵場から仕入れたヒヨコを産卵前の120日まで丁寧に生育された大雛を農園では仕入れている。こちらも暑さを避け、今月から一時間前の入荷。担当者は4時すぎから積み込み、農園で積み下ろしするまでノンストップ。

いつもの「茶髪・ロンゲ・ピアス」の大男30歳が配達。先月で入社10年になったらしい。育雛場では120日出荷なので4ロットを、毎月大雛を出荷し、毎月ヒヨコを入荷する作業の繰り返し。月末は出荷配達作業が多忙を極め、鶏舎の洗浄・消毒を済ませヒヨコの受け入れ。待ったナシの作業続く。

受領サインをしながら、昨日の配達先を尋ねると「島原に5000羽」トラックを3台連ねて走ったようだ。金曜日の深夜に出発、関門トンネルから九州へ入り、都市高速を終点でおりて、鹿島方面へひたすら走って、湾岸道路から島原半島へ。帰りは高速で帰るが諫早ICまでの道のりが、朝のラッシュと重なって一時間以上かかるのが「かなりムカツク」とのこと。わかる、わかると作業しながら頷く。

湾岸道路は走ったことがないが、彼曰く「グッルと回るより早くなった」とのこと。諫早湾をグッルと回る道は私も走ったことがあると思う。評判のアイス屋さんや、自称「人間国宝」の陶芸家アラキヒロシのご自宅もグッルと回るあたりだったように思う。

深夜だと車を少なく、バイパスも増えて随分走りやすくなったと話す「茶髪・ロンゲ・ピアス」に勤続10年の貫禄を感じた。

ふと、松光学園の近くに養鶏場があったのを思い出し、私が知っている懐かしい施設や地名が聞けることを僅かに期待して
「ところで、島原の届け先は何ってとこ?」と尋ねたところ

「うーーーん。たしかイシなんとか。ようわからん。ぶっ飛ばして行って、ぶっ飛ばして帰るだけやけぇ」

これもウンウン。たしかにそうだろうと思う。

鶏の命を運ぶ彼から島原の空気を吸わせていただきました。

ありがとうございます。

あだちまさし

いつもと違う土曜日

朝6時。気温16度。小雨。雨具をつけるほどの雨ではなかったが、Iさんが給餌をはじめる9時ころには雨が上がったので助かった。

Fさんが休みのため、選別パートのF井さんに今日から2日間の臨時出勤をお願いし、8時からタマゴの選別作業。

農園で週3日のパートのF井さん。今年で8年目。

F井さんは、稲作農家。今は田植え前、一ヘクタールの水田に植える育苗などで忙しい時期だが快く引き受けていただき嬉しかった。

いつもとリズムが違う土曜日の作業だったが、みなさんに助けられ予定通りに配達出掛けることが出来た。

伊佐地のテッペンにあるTさん宅。小野田から吉部へ移住され15年目で、高台に建つお宅の居間からはコタツに入ったまま初日の出が拝めるとのこと。

今日の夕方は、眼下に広がる棚田で田植えをしている農家さんが見えた。8割ぐらいの棚田は田植えが終わっている。

その後、吉部八幡宮祖霊舎へ「初うみタマゴ」をお供えして、今月産卵をはじめた鶏が無事に産卵ピークに達したお礼と、今後も順調に産卵を続けてくれるよう御霊様にお願いして手を合わせた。

今日も一日ありがとうございました。

あだちまさし

鶏が入りません

朝6時。気温17度。くもり。少し風があり昨日より適。

6時半すぎにFさんが出勤してくれたので、最後の鶏舎の採卵をお願いして、配達準備に取り掛かる。
ありがとうございます。

出発時間が少々遅れたが、気になっていた機械のベルトとプーリーの噛み合わせをFさんと一緒に調整してから周南方面の配達に出掛けた。

ほぼ予定通りの帰り道、小郡付近でFさんからショートメール

「4番の鶏が鶏舎に入りません。どうしましょうか?」

今朝、運動場へ放した4・5・6番の鶏のうち、追っても4番が鶏舎に入らないらしい。

今、一番若い群れの4番は好奇心旺盛か初めて戸を開放した日から、かなりの羽数が喜んで出てくるが、こういう群に限っては小屋に入れる時に、しばらく手がかかる。

産卵は順調なので心配していなかったが、彼が珍しくSOSを送って来たので胸騒ぎがした。

電話の受け答えが苦手の彼を承知の上で、電話で折り返し状況を聞いたところ

「入れても入れても出てきます。半分以上運動場におります」

ザックリとは状況がわかり、彼の口調からも、さほど取り乱してないようなので一時間の残業を急遽お願いして待機してもらう。

4番の鶏舎に鶏が入りたくない理由がないか観察を依頼。飲水、餌ともに正常か?獣が入っていないか?

電話にて「異常なし」と返事を受けたので、他の理由を考えながら帰り、自分自身、4番の運動場へ。

みごとギッシリ木陰でお遊び三昧の鶏たち。

彼と同じように追い込もうとすると、鶏舎とは逆に向かって逃げる。何度か同じことを繰り返しても同じことで、自分の目で鶏舎内の様子を確認するが、特に目立った異常は見つからず。
もう一度、ひとりで運動場に立ったところ、強い日差しが鶏たちが帰るべく鶏舎の入り口だけに降り注ぎ、あとはスッポリ大きな木陰に覆われている。実際、自分が立ってみると明らかに木陰の方が「涼」。

本能には逆らえないなぁと。

明日から、Fさん2日間休みのため、念のため、4番の飲水機の清掃して作業終了。

今日の最高気温26度。日照はあるもののPM2.5の影響で空も曇りがち。

梅雨のはしり、暑さに体が慣れていない時期のジンワリ暑さは体に堪える。

4番の鶏もそうだったかもしれない

。今日も一日、みなさんお疲れさまでした。

あだちまさし

広島カープ3連勝

朝6時。気温20度。昨日の雨で湿度が高く、ほぼ無風。

鶏舎の戸を開けると鶏の体温でとても蒸し暑い。そんな中でも、しっかり元気なタマゴを産んでくれてます。

全鶏舎の一度目の採卵を終え、7時前にFさんと採卵を交代。パック詰めを少し手伝い、8時前にYさんと交代。昨日に続き、川土手の草刈をした。作業前に草刈機の「クリーナエレメント(390円)」を取替え、快調に始めたが、今日も釣り糸が絡まり2回中断した。昨日は3回。

今年3回目の川土手の除草終了。

Fさんが気を利かせて、採卵途中に先日、袋詰めしておいた鶏糞堆肥40袋(約800キロ)を軽トラで倉庫へ運搬してくれて大変助かった。

今度の日曜日出勤予定のIさんは昨日休みでリフレッシュして出勤。

聴覚障害がある彼女とは、簡単な手話とゼスチャー、筆談と「交換ノート」でやりとりしている。

ノートには箇条下記で、今日の仕事、自分が見たテレビ番組、三日先までの天気、あと彼女が贔屓にしている巨人の試合結果。
休日には、朝食、昼食、外出先などが書いてあり、昨日の場合「昼ラーメン、みゆきはねる。」という具合になっているので思う存分昼寝を楽しんだ様子である。

彼女は365日ノートを書き、私が週5日コメントや仕事上のお願いなどをするが、今日はコメントの書き応えがあった。

なぜなら、彼女が応援する巨人が4連敗。私が愛する広島カープが3連勝でガッチリ首位キープ。

嬉しさをノートにぶつけて返却した。

今日も一日ありがとうございます。

あだちまさし

よろしくお願いします。

スキーのジャンパーが滑走台から、空中に身を任す思い・・・

経験したことないですが、そんな気持ちです。

今まで至らなかった感謝の気持ちを、少しでも形にしていければと考えています。

先を楽しみにして、いまの自分と向き合っていきます。

あだちまさし

よろしくお願いします。

スキーのジャンパーが滑走台から、空中に身を任す思い・・・

経験したことないですが、そんな気持ちです。

今まで至らなかった感謝の気持ちを、少しでも形にしていければと考えています。

先を楽しみにして、いまの自分と向き合っていきます。

あだちまさし

みなさんありがとうございます

短期集中決戦型のわたが、約17年も内容はどうであれ日記を続けた。小さいことを積み重ねる凡事徹底を、鍵山先生の生徒のひとりとして継続ができた。
日記の歴史は、渡辺悦子(イラストレーター)さんから、あるホストにパソコンデータを預けると、読みたい人はファックスでアクセスすれば手元に文字データが届く仕組みを教えてくれた。農園に古いノートパソコンを置いて、携帯電話でホストにモバイル通信。この方法ではじめた。
ホームページが普及。お掃除仲間の広島リコーの中村さんが原型をボランティアで作ってくれメンテナンスも毎日してくれた。
中村さんが病になり、下関のお掃除仲間の倉ちゃん(倉本)がバトンを引き継ぎ献身的にメンテナンスをしてくれた。
農園にご縁ができた美人の水元さんに相談して、本格的なホームページをプロの法子さんを紹介していただき現在の型ができた。

毎日書くことで、頭の整理術ができた。携帯電話で日記を入力する姿勢になれば、その日のまとめがなんとなく出来る力を授かることができた。

わたしが一貫していたことは、自分が育っ日記であり、何人がアクセスしたようなことは眼中におかなかった。また日記をアピールもしなかった。

明日からは長男がバトンを受ける。
わたしは、前の会社もそうだったが振り返らない。日記も読まない。

長いあいだ日記をお読みいただいた皆さまに感謝します。

入力ができる限りホームページ「囲炉裏の部屋」を自分みがきで続けます。お時間ありましたらお立ち寄りください。
http://adachisusumu.jimdo.com

ほんとうに ありがとうございました。
足立 進

配達こそ面白い

岡本拓也さんと朝の会話「松村御大いよいよお遍路にご出立。水曜日らしい」厚狭のお客さまが「唐戸の松村さんがお遍路されるそうですね」
厚狭のお客さまは、御大行きつけの散髪屋の奥さまと旧知の仲。散髪中の世間話が拡散している。
美祢の山奥、猫と暮らすばあちゃんが待っていた。老猫の歯肉炎が悪化して食べることができないから途方にくれていた。これまで眼の怪我や魚の骨が喉に刺さったとき親身に付き合った。今回は見た目にも末期のように思えた。牛乳を与えてみるように促した。
「よしの」のカツオと煮干しを犬の餌に待っている愛犬家が月曜日は二人。特に大型猟犬4頭の家は餌代が助かると待っている。きょうはたくさん持参できた。
全身にがんが転移しているが、重い腎臓病で薬が使いにくいばあちゃん。2ヶ月で20キロ近く痩せた。生きたいと玄関で長い話を聞いた。
農家のじいちゃん。今年も田植えが始まり気合いが入る。昔は広い田を牛で耕した。朝鮮の赤牛がよく働くと聞いて買った。とにかく足がはやく人間がバテた。今では革靴を履いて米が作れる時代になった(空調・オーディオつきトラクターのこと)
下関のお客さまから楠温泉「くすくすの湯」に行きたいからパンフレットを木曜日に持って来てと連絡があり温泉に立ち寄り。
配達では様々なことを体験できる。これが楽しみ。

明日でわたしの日記は終えますが、継続して正志が続けます。

すべては彼女のために

映画「スリーデイズ」130分を深夜から早朝にかけて一気にみた。無実の罪で刑務所に入れられた妻。裁判で無実をはらす手だてがなく、夫が脱獄計画を実行するストーリー。原作は「すべて彼女のために」眠気がぶっ飛ぶ面白さだった。

長府のお客さまからスポットで250個のご注文がありお届けに行った。同じく長府、才川交差点近くの方(加奈ちゃんパン教室生徒さん)から「お試しで食べてみたい」とメールが届いていたので、城下町長府の散策を兼ねて日曜日を有意義に過ごした。

農園に戻る途中に持世寺温泉立ち寄り湯。サウナに二度入り、洗い場に流れるかけながしの湯で大の字で寝ていた「大丈夫ですか!」と身体を揺すられた。倒れていると思われた。
客が居なかったので横着なことをやり、心配をかけたことをお詫びした。

水曜日、25日から農園日記は正志が続けてくれることになった。わたしはHP囲炉裏の部屋
http://adachisusumu.jimdo.com
を心機一転。充実させる。誰かに読んでもらうためではなく、わたしの1日をまとめる研鑽が目的になる。

ムカデ騒動

きのう朝、机のモノを動かしたら下にムカデがいた。殺した。
むし暑い日、ホタルが舞う時期はムカデも活発になる。どこから侵入してくるのかわからない。
数年前、ムカデが部屋に出てほしくない願望が「ムカデ」はいないという私に都合のよい理屈にしているから、部屋で遭遇したら、理屈がハズレた落胆と、恐怖が倍増することが体験からわかった。
ムカデは出るもの。そう思えば「やっぱりおったか」と想定内だから慌てまくることはなくなった。

ムカデが一匹出たら必ずもう一匹出てくるジンクスがある。つまり活動が活発化する条件が整っている証だとジンクスを理解している。
8時過ぎに布団を敷いてテレビを見ていたら。枕の側でなにか動いた気配がした。手をのばせる範囲にテレビのリモコンがあった。
敷き布団を少しめくったら立派なムカデ。とにかく逃げ足は速いからリモコンで頭を一撃。ハエタタキをとって殺した。
ホームセンターで、家屋の周囲に噴霧するムカデよけ薬剤と、食べさせて殺す薬を二種類買ってきた。

空気はよい。たくさんの野鳥に小動物。これからホタルが舞う。
ムカデだけは出るなとは言えない。

囲炉裏の部屋ご案内

5日から自分史を読んでいただいか方にはありがとうございました。
何回まで載せますかと当初尋ねられ「10回で終えます」とお返事をしましたが、少しオーバーしました。あと少し未公開がありますが終えさせていただきます。
わたしのタブレットは、使い始めて7月でまる2年になります。自分史のすべては、2年前に入力を済ませています。
寝る前に携帯電話ですべて入力しました。これも、毎日コツコツ積み上げる鍵山先生からご指導いただいた凡事徹底の4文字が力になりました。

今月をもって「しんあい農園日記」は正志にバトンを渡します。

わたしは「囲炉裏の部屋」を重枝さん(桂子ちゃん友人)の力添えをいただき開設を済ませ、現在ウォーミングアップのかたちで日々更新しています。お立ち寄りをお待ちしています。

囲炉裏の部屋

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自分史 15

簡単なことでも続けること、手を抜かないことが大切。それを「凡事徹底」の四文字で鍵山先生は説かれる。わたしの凡事のひとつに「歩く」を決めた。40歳の頃だった。

宇部市常盤公園。常盤湖一周の遊歩道は6キロ。出張と大雨の日以外は歩いた。
公園清掃は知的障がいの人が行い、わたしが夕方歩くとき家路を急ぐ清掃をおえた人と前後して歩くこともあった。わたしより年上の男性と歩きながら仲良くなった。時計は見方がわからないからバスは利用しない。片道約1時間かけて自宅と職場を歩く。ひとり暮らしで炊飯器の使い方は覚えた。夕方戻ったら月曜日から土曜日まで、鍋を持って歩く近所のコースが決まっている。少しのおかずを数軒からいただき、今夜、明朝と弁当の三回にわける。彼が決まった曜日に来なかったらみなさんは心配になる。
彼は、日曜日お世話になる家を草刈りなどで手伝いをする。地域と共生するひとつのかたちを知った。大切なことを歩くなかで知ることができた。

日曜日、時間のあるときは愛犬(はなちゃん)と常盤湖を歩いた。2周歩き3周目の中ごろ犬が疲れて動かなくなり抱いて歩き終えた。犬はあまり歩かないとわかり、時間のある日は、床波駅始発、5時過ぎの宇部線に乗り小郡駅。その日の気分で山口駅か防府駅に7時ごろ着き、駅のうどんを朝食にして自宅まで歩いた。どちらの駅からでも夕方6時ぐらいには自宅に戻れた。運転では見えないたくさんの風景などもあり、その上に達成感があった。歩く魅力を知った。

仕事先で大好きなところは宮崎県。当時は高速道路はなく、国道10号線をひたすら南に下り、宇部から12時間で南国宮崎市に着いた。
居酒屋は、肉も魚も野菜も焼酎も旨くて安い。宮崎空港までの道路や市内もフェニックスの街路樹は南国情緒たっぷり、宮崎空港のからくり時計は、天岩戸伝説をからくり人形が舞う。
一ツ葉道路から望む太平洋の雄大な景色。
飫肥から杉を運ぶための堀川運河の赤レンガ倉庫は小樽よりわたしのお気に入り。
どっしり腰をおろした霧島山麓。
1年のうち50回もレマンホテル(ビジネスホテル)に宿泊した年もあった。大好きな宮崎県を歩いてみたい気持ちがふくらみはじめた。
1996年11月(45歳誕生月)鹿児島掃除に学ぶ会年次大会に出席した(牧君も馬場さんも来た)。閉会してから宮崎市に移動、常宿のレマンホテルに宿泊。翌日、月曜日の7時にリュックを背負って歩きはじめた。金曜日の夕方まで歩けるところまで歩いてみようと計画をスタートした。この旅を「45歳 旬の旅」と命名した。
毎日50キロメートル以上歩き、阿蘇高森駅で金曜日の夕方をむかえた。全行程約250キロ徒歩の旅。
毎日、足の痛みに耐えたのはいまではよい思い出になった。途中何度か涙をながした。
延岡のホテルでは、足と腰の関節が炎症をおこして腫れて痛くて、冷やせばよいのかあたためたほうがよいのかわからず、眠れない長い夜だった。
朝5時にホテルを出発。高千穂まではずっと上り坂で50キロメートルある。いつも仕事で車で走りわかっている。会話をすることが少なく、途中の北方町役場議会事務局に人恋しくてたち寄った。いつもの服装とちがう私に、職員さんは驚かれた。宮崎市から数日歩いて来て、きょうは高千穂まで歩くことが話題になった。女性の職員さんが「少し待ってください」と小走りで部屋を出た。しばらくして「名産品の次郎柿ブランデー漬け」をふた袋をリュックに入れてくれた。
その日は昼食の食堂がなく、単調な上り坂を歩き続けた。リュックにパンを持っていたが、ついてきた野良犬に食べさせて、わたしの食べるものがない。飲み物自販機はあったが小銭がなかった。
午後2時。身体も気持ちもヘトヘトになったとき次郎柿を思い出した。ガードレールをまたいで草むらに腰をおろして柿を夢中で食べた。食べながら涙がこぼれた。嬉しくて泣いた。

高千穂も早朝に歩きはじめた。阿蘇外輪山に上る途中の久木野村。白い服装が大勢いた。オウム真理教が本拠地を築いていた。
外輪山の頂きに立ち、眼下に阿蘇内牧が航空写真のように拡がっている。その日、疲労の限界でカメラをどこかに落とした。カメラがないから、この素晴らしい景色を心のカメラに刻もうと、しっかり心のシャッターをきりながら山を下った。あまりの美しさに涙がこみあげた。カメラがなくてよかった。
阿蘇高森駅の公衆電話で自宅に「終わった。これから帰る」と告げて、また涙がこみあげた。
柿で生かさた実感の涙。景色の美しさに感動の涙。全力を出し切った清々しい涙。
250キロメートル歩けた旬の旅。
いまもわたしは毎日歩いている。

自分史 14

金光出版で全力疾走していた時期に宇部と金光は山陽道が開通した。アクセル全開で走れば3時間「こだま」より速かった。

常宿は新倉敷駅近くのセントイン倉敷か、福山第一ホテル。
セントインに泊まるときは、金光教本部に在籍する青年教師を誘い酒盛りをした。玉島のポプラという焼肉屋はホルモン専門。ビールとホルモンと大盛飯と不健康なメニューが旨かった。

新幹線、新倉敷駅前の焼鳥「鳥田金(とだきん)」で青年教師と酒のせいで熱く語った。閉店になり、支払いを済ませて店を出たら店主が「ちょっと」と野太い声で店から出てきた。
わたしが話していた内容を、カウンターの向こうで聞いていたらしい。わたしの考えに持論を長々喋る。面倒になり歩きはじめたらホテルまで話ながついてきた。ロビーで遅くまで店主の話を聞かされた。
店主の名前は趙さん。北朝鮮が本国。大柄で顔は怖いが酒は飲めない。以後、鳥田金の常連客にわたしはなった。
ある時、閉店までひとり飲んで酔った。趙さんがとなりに座り、また長い話をはじめた。
趙さんの母は終戦直後に大阪から玉島(倉敷近く)の同胞を頼ってきた(おそらく娘時代)汽車賃が岡山駅までしかなく、岡山から玉島まで60キロ、8月の炎天下を歩いた。
母が亡くなり、趙さんは母の追体験をやろうと決め、8月の炎天下に岡山から玉島まで歩いた。歩きながら母の苦労に涙が出た。その話に、私も涙が出た。

農園をはじめて間もないとき、趙さんご夫妻が突然来られた。農園の門出に民族カラーの派手な布団をちょうだいした。

今でも「どうしちょるなら」「元気か」と電話がある。

自分史 13

2年前入力

久住掃除に学ぶ会

大分県久住町で掃除の会がはじめて催されたときお手伝いに行った。
大分県は、大分イエローハット矢野社長が各地の公共施設を掃除されており、久住の関係者はそれがきっかけになった。
町役場に自治省から派遣されたYさん(総務課長)と地元の医師が立ち上げた。役場は相当古く、入り口は手で左右にガラガラと開ける。便所も歴史を感じる汚れだった。Y課長は新庁舎建設計画を立案されていた。
2時間、ひとりがひとつの便器に向かい磨きあげた。感想を述べあう場になった。Y課長が目にいっぱい涙をためて 古い庁舎を崩して新しくする計画を止める決心をしました。古いものを大切に磨き込んで使う意義がわかりました。建設計画は頓挫した。
前夜は久住高原の温泉ロッジに泊まった。各地から応援の掃除仲間が集まりロッジは貸切りだった。
夕方、高原のロケーションが満喫できる温泉にほろ酔いで行った。脱衣場入り口のスリッパは多かったが整然と揃えていた。さすが掃除仲間は履き物を揃えて心を揃える意味を知っているわいと上から目線だった。脱衣場に入り脱衣カゴに衣類がたたまれて入っており、いま入浴中の仲間に教わることがたくさんあると感じた。

レストラン キャプテン

掃除に学ぶ会の機関誌「清風掃々」の創刊を、わたしに任せていただく光栄をいただいた(平成9年)。
お盆休み返上でその編集をしていた午後、当時「浜勝」の元岡社長(掃除の会)が、宇部店に来たので今夜は宇部に泊まるから夕飯を一緒にどうですかとお誘いをいただいた。
長崎が本店でトンカツ店を50店舗以上も経営されている、わたしには経営の神様のような方。わたしが常連の市内港町の鉄板料理店キャプテンを2名で予約した。
夜、元岡社長とキャプテンで合流。コースの料理が出てきてワイン出て会話が弾んだ「このお店は素敵ですね」と何度か言われた。客はふたり、シェフの主人と子供を背負って給仕する奥さま。どこが素敵かわからないまま「このお店は素敵です。奥さま、お店で一番おすすめの赤ワインをボトルでください」と元岡社長。
わたしは財布が気になったが、支払いは明日でもよかろうと腹を決めてボトルにつきあった。
支払いは、わたしを制して元岡社長がされた。お釣りを渡す奥さまに「あなたの働く姿がとても素敵でした。ご馳走さまでした」と頭を下げられた。
子供を背負ってまで働いてもお客さまは少ない。レストランで子供を背負っての接客は無理かもわからない。あずけるところもない若い夫婦は行き詰まっていた。
レジで奥さまがしゃくりあげて泣かれた。
その夜を契機にキャプテンの腰が定まった。数年経って若い夫婦は、熊本の元岡社長(レストラン・ティア)を訪ねて、あの日のお礼をもうしあげられた。

タマゴが営業する

農園をはじめたとき元岡社長がお祝いに来てくださった。
わたしの手を握り力強い口調で「タマゴの営業はタマゴがしなくてはなりませんよ!」
売る戦略より、よい商品をつくることに力を入れよと激励を受けた。

仏壇はどこか

わたしが御大と呼び尊敬している唐戸魚市場相談役 松村久さん。
御大の萩時代、中学校の同級生だった上田さん。上田さんも私の恩人。
上田さんの自宅は、防府市の旧山陽道沿い旧家。庭を愛でて「ふく」を食べようの企画が整った。
わたしは少し早めに着き、格式の高さに居心地が落ち着かない。松村夫妻が「ふく」の大皿を何枚も持参。御大も初めての訪問のようす。靴を脱ぎ「仏壇はどこか」と尋ねて、はじめの挨拶は仏壇。それが御大の流儀と知った。
あの夜は日本酒を、足が萎えるほどいただいた。小郡駅までわたしを送る貴美さん(御大夫人)運転の車を国道脇に停めさせ御大は小便。肩を貸した私の足は萎えており、小便の草むらに転がった。
明くる日の夕方、ゴルフを終えた御大から「ゴルフは優勝した」の電話。

海将の思い出

小野田市に「食べ処
海将」があった。ある夜、今週からタマゴを納めてくれないか。唐突な電話があった。単価など説明していたら「単価はなんぼでもよい」と言われた。農園で障がいをもった人が働いていることに共感された口ぶりだった。私より20歳ぐらい若い夫婦の繁盛店。いつもはっきり考えを口にできる大将。
あるとき、きょうは雨が降るから客が少ないとか、雪とか暑いとか、客が来ない理由を天気のせいにする者がいる。その店は繁盛しないと思う。客は店の味と接客に動く。天気は関係ないと言いきった。

大将は奥さま実家の家業を継いでほしいと頼まれ、繁盛店を半年計画で閉めた。男の美学を生きていた。

鎌田社長

鹿児島掃除に学ぶ会を立ち上げられた鎌田建設の鎌田社長から遊びに来られませんか。とお誘いをいただき国分市の本社を訪れた。
鹿児島県下ではナンバーワンの建設業で、銅板葺きの立派な社屋のそばにはアリーナ。自衛消防隊の機庫には消防車が並んでいた。地元の災害には会社組織が消防署に協力する体制が整っていた。

行きましょうと、わたしを先導して走る社長の車はピカピカ年代物のトヨタセンチュリー。
霧島温泉の料理で有名な宿に案内され、鎌田社長から白濁のお湯で鍵山先生のお人柄をたくさんうかがった。
料理が部屋に運ばれ郷土の味と酒に満足した。9時を過ぎたころ、明日の朝5時から地域の清掃をします。私は帰りますがゆっくりしてくださいと言われた。そして宿の浴衣を脱ぎ着替えたあと、浴衣と帯をたたんでカゴにおさめて宿をあとにされた。
私が浴衣をカゴに入れるときは、それまで足だった。

鍵山先生

農園に何度も鍵山先生にはお泊まりいただいた。
あるとき、ゆっくり一泊され宇部空港から発たれた。空港までは仲間が運転してくれ、先生をお見送りしたわたしはほっとしてビールを抜いた。
空港に着く前に先生は、わたしの自宅に寄りたいと言われたらしい。自宅で私の母に 足立さんにお世話になっている鍵山です。と挨拶されたとあとから知った。
やれやれとビールのわたしと、母親にお世話になっていますと挨拶に赴かれたおおきな差。鍵山先生からたくさん学び、実践はわずかであるが目標。

自分史 12

小休止

わたしの人生は人の数倍迫力満点の失敗談が多い。
タクシーを降りるとき「ご馳走さま」とお礼を言うぐらいの笑い話は山ほどある。中でも笑いの最上級クラスを三話文字にしておこう。

ポケットベル事件

会議録の営業で移動範囲が広いわたしは、ポケットベルが発売されるとすぐに契約をした。山口県・福岡県・大分県・宮崎県・岡山県の5県を受信範囲に設定してもらった。
余談だが、韓国釜山では福岡県エリアでベルが鳴ったことがある。
そのベルをはじめて身につけて営業に出た。事務員さんにベルの呼び出し方法を教えた。その日は徳地町営業があった。
小郡ICから中国自動車道を走った。山口ICを通過して次が徳地IC。途中に「荷降峠SA」がある。トイレに立ち寄った。駐車場にはわたしの車だけ。小鳥のさえずりが聞こえた。
峠の下にはインド洋上空の気象観測衛星インテルサットと交信する巨大パラボラアンテナが数基、上空に向いていた「宇宙人は本当にいるのか」と一瞬思った。
便器に向かっていたらピッピッピッピッと音が聞こえた。
宇宙人の交信に間違いないと瞬時に判断した。かなり交信音は近い。姿勢を低くしトイレから外を見た。宇宙人は隠れて交信している。もうダメかもわからいが走ろうと全力で車に走りドアを閉めてアクセル全開で走り出した。
宇宙人の交信音は背広の内ポケットのポケベルだった。

クリスマスイブの夜

その年のイブは宮崎県延岡市。ビジネスホテルの9階に宿泊。夕方から近くの居酒屋で夕食。帰り道で酒屋で焼酎を買った。部屋で焼酎を飲みながらパソコン通信。部屋はあたたかくパンツと靴下(5本指)で横になったら寝ていた。目が覚めたらトイレに行きたく、トイレのドアをあけて入ったら、そこは廊下だった。オートロックは無情に施錠。
パンツと靴下のわたしは酔いが覚めた。とにかくエレベーターまで行けばフロント呼び出しの電話がある。しかし、それはなかった。
パンツで廊下に立っていても解決しないから意を決してエレベーターのボタンを押した。やがて降りるエレベーターが到着。
1階フロアーど真ん中でエレベーターのドアが開いた。イブのパーティーが終わった人が大勢くつろいでいるなかを、パンツと靴下のわたしはフロントに走ったのであった。

寝台特急「さくら」

名古屋に用があり、宇部駅で夜中の11時ごろ乗れば、終着の名古屋に朝到着の寝台特急「さくら」があった。
乗車の日、友人から電話があった「さくら」の最後尾車両はサウナ風呂があり、ビールの販売機もあるから快適です。寝台で寝る前にサウナで一汗かいて冷たい缶ビールで快眠が約束されます。
実は、これはジョークだった。けれどもわたしは寝台に荷物を置いて、タオルと小銭を持って最後尾車両に向かって歩いた、途中で乗務員さんがいたので「風呂はこみ合っていますか」乗務員さんは「風呂!」と絶句した。

自分史 11

高校生のころ、言葉につまることがあった。特に「た行」と「か行」が言葉の先頭につくと、言葉がつまり発声できないことが多かった。
その場合はちがう言葉を探していた。一度つまずくと焦り、よけいに言葉が出なくなった。

吃音がなによりわたしの最大の悩みになった。特に電話のときはつまるばかりで、電話恐怖症だった。
一番恥ずかしい思いをした場面は、家内の母親のご葬儀。地域の方がお手伝いしてくださり自宅で葬儀がつかえられた。親族が火葬場に向かうとき、家内の姉の主人から「残ってお手伝いのみなさんにお礼の挨拶を頼みます」と唐突に言われた。
嫌です、できません。それは言えない場面になった。火葬場に車が出たあとわたしの出番になった。
お礼の挨拶は頭のなかにはあるけれど最初の一言が出ない。沈黙の時間は長く感じた。わたしのようすを見かねた方がわたしを座らせ代弁され座は終わった。まるで尾を下げた犬の心境で、早くこの場から逃げたいと思った。
ある方の出版をお手伝いして、別府温泉で出版記念会が催され出席した。長崎市の方ともやり取りが進んでいた。電話が苦手だから家内に長崎市から電話があったときの対応を頼んでいた。
その夜、長崎市の方から別府の宿のわたしにお叱りの厳しい電話があった。要は、わたしは重要なことを伝える手段はいつも家内であり、それは間違っている。ズバリと指摘された。反論の余地はない。
よし!と腹を決めた。携帯電話(日本セルラー社・電池パックはMとLを使い分ける大型)を買った。苦手な電話から逃げない背水の覚悟。
それから徐々に吃音が消えていった。いまでも、たまにつまるときはあるが。

自分史1 0

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母が30数年も山大工学部職員として勤めた退職金の全額を、西岐波下萩原の建て売り住宅(ヤクルトホーム)購入に費やした。
敷地面積は50坪。隣接の50坪をわたし名義で買い、母とわたし夫婦の同居がはじまった。長男(正志)は野中の借家時代に生まれ。照美と真砂恵はこのヤクルトホームで生まれた。
会社(ぎじろくセンター)は、敷地の中に建てたプレハブ小屋からスタートした。
母が汗水をかいて働いた退職金が、わたしの生活と起業の基盤になった。

わたしは西岐波の住人になった。床波漁港に近いせいもあり、魚釣りが好きで4級船舶免許をとり釣り船を手に入れ、床波港に船を係留した。
港を出入りするとき必ず間近に通過するものは、海面から突き出た円筒形の2本のコンクリート構造物、それに関心はなかったが、港で釣り仲間と交わす会話で、その構造物は海底炭鉱の坑道に空気を入れ、空気を排気する役目の炭鉱用語で「ピーヤ」と教わった。
昭和17年2月3日の午前6時。いわゆる「水非常」とよばれる海水の流入で184名の命が奪われ、遺骨はまだ海底に遺されたままという背景があった。
当時、金光教沖縄遺骨収集奉仕に加わり、毎年2月に沖縄に通っていた。遺骨より慰霊がどうなっているかが気になり、わたしの長生炭鉱がはじまった。

慰霊碑があると聞き、ピーヤから直線上の陸地に足を運んだ。立派な「殉難の碑」が有志により建立され、水没事故で亡くなった184名のうち、約130名が朝鮮半島から来た労働者。ほかにも中国(支那)や沖縄からの人らしい名前が刻まれていた。
床波のご高齢者に当時のことを聞くとご存じの方が何人もおられた。特にIさんは弟が長生炭鉱職員であり詳しくご存じだった。弟さんは後日陸軍に召集され戦死。Iさんは久留米で陸軍憲兵のとき終戦。
わたしが関心を持ちはじめたころ、もうお二方が長生炭鉱を調査されていた。
一人は、強制連行された外国人労働者が強制労働を強いられた。その裏付けを得るための調査。
もう一人は、KRYテレビ。当時取締役の磯野恭子(やすこ)さんは、事故の歴史を風化させないための記録番組制作の目的だった。

わたしは海岸に炭鉱社宅の一部があり、そこで生活されていたHさん老夫婦を訪ねた。じいちゃんは炭鉱関係者だったが、わたしが話を聞きに行くと「帰れ!」と追い払われていた。身体が不自由なばあちゃんの介護でわたしに付き合う気持ちの余裕はない様子だった。
何度か訪れたあるとき「茶を飲むか」と言われた。上がり口に腰をかけて汚れた湯呑みが出された。じいちゃんは電気工。事故当日、採炭現場で水漏れがあるから念のため電話機をつけるよう緊急に保安係から要請され、深夜に坑内に入り最先端に連絡電話機を取り付けて坑道から出た。水没事故発生は午前6時。
毎月一度「大出し」と呼ばれ、採炭ノルマが多く課せられる日があり、昭和17年2月3日も大出しの日だった。ノルマ達成のため採炭夫たちは上に向かった(海底)危険な鉱脈を掘った。海上を行き交う船のスクリュー音が聞き取れた。漏水場所にはコンクリートなどでとめることはなく、草などを詰めて応急処置をしていた。
じいちゃんは通うたびに当時の炭鉱生活を話してくれるようになった。わたしは自宅で多目にできたおかずなどを持って行った。
山口放送の磯野恭子さんに「当時を話せる人がいる」と連絡。後日、テレビカメラと磯野恭子さんがじいちゃんを訪ねて短時間の取材をした。この取材が大きな意味をもたらした。
数日後、夕方のKRYテレビニュース番組でその取材が短く報じられた。
筑豊の宮田町でたまたまその番組をみた人がいた。15歳で韓国から働きに来た、A順得さん「Hさんだ!」と当時たいへんお世話になったじいちゃんを見つけた。すぐにテレビ局に「Hさんにあいたい」と電話をかけた。その内容が折り返しわたしに届き、わたしは宮田町にAさんを訪ねた。
当時の韓国は生活にあえいでおり、日本に行けばご飯を食べさせてくれる仕事がある。辛抱したら家族を呼び寄せることもできる。
その話を聞いて海をわたり同胞の世話になりながら長生炭鉱についた。けれども現実は厳しく、例えば給料は炭鉱の売店でしか使えない金券で至急され、日用品などもすべて金券で売店で買う。経営者は大儲けできるシステムになっていた。金券を日本人に買ってもらい、わずかな日本円が手にできたら住吉座に映画を観に行ったり、羽衣屋で甘い菓子を買ったりできた。
Hさんの家にはAさんと同級生の男の子がいた。それでよく自宅に招いてくれて食べさせてもらった。
HさんはA少年の給料を毎月すこし日本円にして現金で保管してくれていた。
水没事故のあとHさんが小声で「ここは危ない。よそに行け」と案じてくれた。独身寮の周囲は360センチの塀で囲まれており、出入口には見張りがおり脱走を警戒していた。家族持ちは炭鉱住宅に入り当時の西岐波小学校の在籍名簿にはたくさん朝鮮姓がある。
「今夜逃げます」とHさんに告げたら貯金を渡してくれ餞別もくれた。
下関まで逃げて、宇部に行くという同胞がいたので長生炭鉱のHさんに渡してくれと鉛筆一箱をことづけた。
Aさんは当時を回想して涙を流された。Aさんは心臓に持病があり「宇部に行こう」と誘う私の申し出を断った。
それならHさんを連れて宮田町のAさんを訪ねようと磯野恭子さんと連携した。
テレビ局の車にHのじいちゃんを乗せて宮田町に行った。ふたりは抱き合って無事の再会を喜んだ。
Aさんは小倉で空襲に遭い、長崎軍艦島に働き行ったが過酷で逃げた。宮崎の旭化成で防空壕を掘る仕事についたときも空襲に遭った。とても運の強い方だった。
その涙の再会は特別番組として放映された。
その後、磯野恭子さんは韓国に渡り遺族と面談されたりしてドキュメンタリー映画「海鳴りのうた」を制作され、その年の国内ドキュメンタリー映画最高賞をとられた。
あの「殉難の碑」では慰霊にならない。つまり謝罪の言葉を刻んだ「殉職の碑」にせよという声が一部にある。強制連行は昭和19年から終戦まで、国内の労働力不足を補うためにおこなわれたらしい。長生炭鉱水非常(昭和17年)と強制連行は無関係だと思っている。

わたしがHさんのお宅に通うとき、毎月3日(月命日)碑に花が供えられることを知った。Hのじいちゃんが、あの花は水没事故の直前に坑内に入るEさんがいたので「危ないからやめちょけ」ととめたら「わたしは責任上入らなければならない」と入った、当時30歳の保安係Eさんの奥さんが事故以来欠かさず献花を続けていると教えてもらった。
Hのじいちゃん葬儀は数人の参列だった。ばあちゃんは病院を転々とした。最後は認知症になり、わたしが財布を盗ったなどと騒ぎになり足が遠のいた。
農園に一本のピッケルがある。じいちゃんの葬儀の日に連絡がつき戻ったひとり息子が、お世話になりましたとわたしに頭を下げたとき、形見にあのピッケルをくださいといただいた。
じいちゃんから炭鉱時代の写真を見せてもらったとき、鉱業主と二人で鉱口で撮った一枚があった。鉱業主のRさんはピッケルを握っていた。坑内で石炭の層をみるときにピッケルを使った。写真のピッケルをその後じいちゃんは鉱業主からいただき、じいちゃんの宝物。上がり口にかけていた。よくみると「H氏」と主が刻んだ文字がある。
ピッケルがわたしの長生炭鉱。

ピッケルは2016年春に、床波 西光寺の佐々木住職を訪ね行き場を相談した。わたしが生きておるうちは由緒がわかるが。
住職のお骨折りで、常盤公園石炭記念館におさめられた。

自分史9

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わたしが40歳のころ。
宇部に高垣という重度脳性麻痺の老人がいた。父親は「怪傑ハリマオ」原作者らしい。
高垣さんは食品公害問題に取り組まれ、著書「猫・猿そして人間」(水俣病のように体の小さい動物から食物連鎖で発症する)の出版でお手伝いをした。
その高垣さんから「知り合いが自費出版するから会ってくれ」と頼まれ、周東町「亀の里アパート」に50歳過ぎの男性Kさんを訪ねた。重度の脳性麻痺で歩行はできない。言葉もなかなか理解が困難だった。
アパートでは、彼のようなハンディを持つ男女が10数人、以前は伝染病隔離病棟だった建物で部屋毎に生活の場を持っていた。
みなさん全国の施設からここに自由を求めてやってきた。施設では規律にもとづいた生活の繰り返しで人生が終わる。
起きる時間に寝る時間。献立もきめられ酒やタバコはご法度。風呂に散髪などまで管理されると刑務所とかわりはない。そこから脱出した連中をキリスト教が「アパート」として受け入れていた。
Kさんの部屋は這って炊事ができるように、畳の高さに炊事場がつくられ、週に2日障害者年金のなかからヘルパーを雇い食品などを買い物してもらい自炊していた。
廊下を這いトイレに行く住人をみたとき、それは初めてみることで、正直な感想は異様だった。
Kさんの、理解がむつかしい発音を懸命に聴き、わからないことは何度も尋ねて自費出版のアウトラインが理解できた。
出版の目的で年金を長年貯めた100万円がある。原稿もある。本のタイトルは「孤独の挑戦」で300冊を90万円で請け負わないか。10万円は出版記念会に充てる。それが彼のプラン。
原稿をみて活字の量からページ数を出さないと返事ができないから原稿を見せてくれと言った。
彼が示した箱に原稿用紙が分厚く重ねられ、達筆の鉛筆文字だった。誰が書いたのか尋ねたら「牧師の奥さん」書き上げるのにどのぐらい時間がかかったのかと聞いたら「14年」と答えた。聞き書きで脱稿。やらねばならないと腹を決めた。
「孤独の挑戦」と題された内容はKさんの人生。
京都で戦時中に誕生。首がすわる時期を迎えてもすわらない。医者の診察で麻痺があると告げられた。
その頃、召集により父は出征。母は生活に困窮して育児を放棄し蒸発。父方の祖父と困難な生活がはじまった。祖父は生活の糧をえるため土木作業などの労働をした。仕事に出る前におむつを替える。Kさんの昼ごはんはパン。夕方、祖父はもどり夕飯の支度と汚れた衣類やおむつの洗濯を毎日した。
この時期、汚れたおむつを、疲れて戻った祖父に洗わせることが申し訳なく思った彼は、這ってトイレに行くすべを身につけた。おむつは無用になった。
高齢で働けなくなった祖父は行政の世話で東京府中の老人ホームに移送され、Kさんも東京の施設に入れられ二人は会うことを失った。
Kさん紆余曲折を経て新天地を山口県にもとめてアパートに来た。
本ができるまで打ち合わせなどでアパートに通い続けた。わたしの差し入れは小さい巻き寿司が彼には食べやすかった。昼間からカップに入れた日本酒をストローで飲みながら巻き寿司を食べた。アパートの住人たちとも仲良くなった。
本が出来上がり、Kさん主催の出版記念会がアパートで挙行された。わたしも招かれ楽しんだ。宴席で彼に「この本をじいちゃんの墓に供えようか」と言ったら「頼む!」と頭を下げた。
一週間後、彼から託された「孤独の挑戦」と酒に線香を持って、本にあった府中の老人ホーム「養育院」に行った。受付で訪問の目的を告げた。職員さんが献身的にじいちゃんの記録を探してくださり、じいちゃんは養育院の無縁仏に納骨されていることがわかった。場所は多摩霊園。多摩霊園に着いたのは夕方で管理人はいなかった。広大な霊園でその無縁仏の墓を見つけるのは困難かと思ったら案外早く発見できた。
墓にお供えして線香も供え、それを写真に撮った。
後日、アパートに写真を持参したらKさん最高に喜んだ。それ以後彼には会っていない。
半年ぐらいして養育院から電話があった。
あれから調べてみたら、最後は病院で亡くなり、その後が不明。つまり多摩霊園にじいちゃんはいないことが判明した。
けれども、そのことはKさんには伝えてはいない。

自分史8

2年前入力。石原先生は故人となられた。

山あいにたたずむ一軒の農家。わたしの手元に水彩画の作品がある。描いたのは東京でデザイン事務所をされている石原忠幸先生。

先生とのご縁から記憶をたどってみる。
ある女性の出版を手がけた「命は生かせる」がタイトル。表紙をどうするか悩んだすえ「絵」を使おうと思い、菊川画廊にはじめて足を運んだ。目的を話したら菊川さんから予算を尋ねられた「5万円以内」と正直に言うと「無理です」と正直に返事をされた。本の内容が読める校正用のプリントは菊川さんに差し上げて「絵」はあきらめた。その足で高速道路で宮崎出張に向かった。
宿泊先のホテルで夜に菊川さんから電話を受けた「足立さんが帰ったあと、個展の打ち合わせに石原先生が来られ、本のプリントを読まれ、僕が引き受けましょう。そうなりました!」後日、石原という人物はホンダNSX(スポーツカー)のカタログデザインを手がけた有名な方だった。
1ヶ月ほど過ぎたころ石原先生から「明日の午後、作品を渡しますから、小郡駅で会いましょう」翌日、はじめて先生と駅でお会いした。小柄な初老の紳士。喫茶店で「むらさき露草(題字も先生)」の作品を預かり、印刷の色指定について細かな打ち合わせをして、先生は折り返し東京に戻られた。5万円の支払い作品をわざわざ持参された。
本が完成し作品の支払いをしなければならない。石原事務所に銀行口座を聞いて5万円を送金すればよい。けれども5万円は手渡すのが今回の筋だと考えた。石原事務所に先生の居場所を確認した。長野善光寺近くの画廊「ロートレック」で個展中。わたしは名古屋から中央本線で長野に着いた。駅前の宿で泊まり、早朝に善光寺参拝。ロートレック画廊はすぐ見つかった。画廊の主が「石原先生は急用で昨夜東京に戻り、今朝の電車で長野駅に着く」着く時間と、わたしが予約した東京行きの電車の出発時刻を比べたら、10分ほど駅のホームで会えるとわかった。
ホームで先生を見つけて5万円を渡し、用意した領収書にサインをいただいた。
わたしの仕事は終わったが、石原先生の身辺でなにかあると電話がかかるようになった。
独身で芸術の道ひとすじに生きてこられた先生が困り果てたときなど「遊びに行ってもよいですか」などと電話をくださった。
現代画廊で、スペインの個展をされ、終わった日。特に大切な作品2点はご自分で持ち帰られた。マンションの鍵をあけるとき中で電話が鳴った。作品を廊下におき電話に走り、電話が終わったとき廊下の作品は消えていた。
画廊の菊川さんとわたしで話し合い、石原先生が宇部に立ち寄られたら励まそうと決めた。
後日、私たち3人で別府1泊旅行に出た。別府温泉のなかでも古さは一番の宿、木造三階旅館(田の湯)。食事は朝夕とも宿はつくらない。外食をすませ風呂に入り、部屋の暖房の効きが悪く、3人とも布団を頭からかぶりコップ酒を深夜まで飲みながら芸術や人生を語った。

農園のスタートイベントは7月20日。石原先生個展は同じ20日まで菊川画廊で開催されていた。
イベントには大勢のお掃除仲間が全国各地から来てくださった。歌手の梅原司平さんも出演を依頼して小野公民館でコンサート。農園で祝賀会宴会をした。
前日、石原先生に会いに19日に菊川画廊を訪れた。先生は喜んでくださり作品の説明をしてくださった。特に2階の風景画の説明は長かった。

この絵を描いていたらおばあさんが近寄って来られた「年齢はちがうが、絵を描く人をみたら息子を思い出す」おばあさんの家に招かれお茶をいただいて息子さんの話を聞いた。

おばあさんの息子さんはカメラマンだった。趣味で絵もたくさん遺して東名高速道路で仕事中に事故で亡くなった。

わたしはカメラマン・絵・東名高速道路事故で思い当たるふしがあり石原先生に尋ねた「この作品の現場はどちらですか」と「岐阜県の恵那市です」わたしはさらに尋ねた「先生、おばあさんの名前は土方さんではありませんか」

先生の顔色が変わった「なぜ足立さんがおばあさんの名前をご存知ですか!」

その半年まえ、伊勢神宮掃除に学ぶ会が鍵山先生の願いで開催された。五十鈴川で禊。内宮、夜の月例祭参拝。境内のトイレ掃除。すべて終わり参加者約20名が、今回の伊勢神宮に参加した理由(願い)を発表する場面になった。岐阜県恵那市から参加された田中義人さん夫妻に発言の番がまわった。奥さまの美鈴さんが話そうとされたが言葉が出ない、大粒の涙があふれるばかり。ご主人の義人さんが奥さまを代弁された。
奥さまの弟さんはカメラマンで、伊勢神宮の月例祭を撮りに来られた。その帰り道、東名高速道路で事故に遭い亡くなられた。奥さまは弟が最後に仕事をした現場、内宮の月例祭が拝めると聞いて参加を決めた。それが理由だった。奥さまの旧姓は土方。

石原先生にお願いした。明日の夜(7月20日)土方さんの娘婿(田中義人さん)が農園に岐阜県から来られます。この作品をご覧いただきたいのです。拝借させてください。

作品は農園に持ち帰った。20日、田中義人さんが岐阜県からお祝いに来てくださった。部屋に入り目についた作品に「これは家内の実家の風景によく似ている!」

訳を話したら「この作品を買います。母にプレゼントします」と持ち帰られ価格の18万円を画廊に送金された。

しばらくして買われた作品と一冊の本が農園に届いた。
本のタイトルは「いのち輝きて 土方邦順の追想集 1959〜1998」
彼の生前の写真と絵で綴られた偲び草。

手紙には
母は石原先生と農園の数奇な出会いに驚きました。
けれども作品は、わたしの手元においても、わたしがいなくなれば理由がわからない。
だから作品と偲び草を足立さんにいただいてもらい、農園に来られた方に話していただければ息子が遺した人生が人に伝わる。
いただいてください、母の頼みです。

この物語は、農園に来られた人全部ではないがほぼ伝えている。これからも。

自分史7

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農園をはじめて間もないころ、地域在住で足の不自由な女の子(20代)Mちゃんが農園で働くようになった。
家庭の事情で彼女が「おばさん」と言うおばあさんの家から農園に通った。おばさんの家は山すそでも高い場所にあったが、彼女は障がい者用に改造した軽四を運転して往復した。
ある年の冬は寒さが厳しく、路面が凍結した日は正志がMちゃんを送迎した。
その朝は氷点下5度まで冷え込んだ。わたしは早朝から採卵をはじめ7時過ぎごろ、農園に向かって歩いてくる二人の姿が、遠く目にとまった。滑らないように慎重に、ゆっくり歩く。身体が大きく左右に揺れるのは足が不自由なMちゃん。その後ろは小さな身体のおばさん。
昨夜、正志が「明朝は迎えに行きます」と電話をしたら「いや、ええです」とおばさんが断ったと正志から聞いた。
Mちゃんに歩いてきたワケを聞いた。昨夜、正志の申し出を断ったおばさんが「人様に甘えるクセはようない。歩いて行け、ワシもつきあうから」
二人は凍結した下り坂を、時間をかけて歩き、おばさんはMちゃんを農園に送りとどけて坂道を上って帰った。
理屈で教育するわたしには、身をもって教育されたおばさんの後ろ姿が、いまでも脳裏に刻まれている。

自閉症のS君。支援学校から実習で農園に来た。その縁で農園で働くことになった。宇部線電車で終点の宇部駅、バスに乗り船木の終点まで。そこから農園までには経由地があり1時間。片道約2時間の通勤。バスから降りて農園まで、例えば橋を歩く彼の「こだわり」は歩数。渡りきる歩数が納得できないから何度も橋を往復して、納得できる歩数になったら来る。鶏の鳴き声に「やかましい!」と興奮して怒鳴る。それを「やめんか!」と制止したら気持ちのはけ口を失い、鶏舎の壁を拳から血が流れるまで叩いた。そのシーンを思い出す度にS君にお詫びの気持がする。
自閉症について、わたしはまったく勉強しないままS君に接した。自閉症の人のなかには、わたしの何十倍も聴覚が敏感な人がいることを最近知った。
鶏に「やかましい!」と怒鳴るS君に無理解だった。彼は辞めた。わたしはそのとき肩の荷がおりたような気がした。しかし、いまはS君をまったく理解していなかったことに大きな反省がある。

自閉症のこだわりが理解できたことがあった。
あるとき、その日の都合で配達コースを変えなければならないことになった。いっそのこと逆まわりに走ろうかと思ったとき頭が混乱した。
いつも決めた順路で走れば、車を停める場所。トイレやコンビニなど決めたように走れば安心できる。逆まわりは想像しただけでも不安になる。わたしも「こだわり」の生活をしている。

農園をはじめたとき、高校不登校のT君をあずかった(彼は岡山県)。小郡町にまかないつきの下宿を岩城(当時、小郡町町長)さんのご紹介で落ち着いた。わたしは彼が農園で力をつけてほしいと願っていた。
山口高校定時制に入った。級友は彼より年下。授業が終わると夜の街でクラスメイトと遊び、そのお金はT君が兄貴面して払った。なんとかバンクで借金してまで兄貴を演じた。返済のため昼ごはんもキャンセル。地域の仕出屋「やなぎ屋」のご好意で300円の豪華弁当を買うお金もなかった。
結局、学業は浪費で破綻し両親が連れて帰った。親が親身に関われるのなら、なぜ農園に預けたのか。疑問はいまも残る。

もう一人のMちゃん。耳が不自由で自宅生活。二十歳前にある方の紹介で働きはじめ、いまも通っている。
働きはじめて間もないころ地域の方が「おたくで働く女は挨拶もせんし、車のクラクションも無視する。横着者じゃ」とわたしに言った。地域のみなさんに耳と会話が不自由なことをお知らせしなかったから問題になった。事情を説明した以後、みなさんあたたかく見守ってくださる。もう30歳ぐらいになろう。

西君。吉部八幡宮に弟と二人、幼いとき家族として迎え入れられた。軽い知的障がいと、てんかんの持病があり学校卒業後、宇部市内に左官職人をめざして弟子入りした。20数年、親方に鍛えられたが持病の発作が多くなり辞めた。八幡宮にもどり仕事を探していた。誘いに応えて農園で働きはじめた。
とにかく正直者。体力は左官で鍛えられ、スコップを使わせたら職人技。
お宮の宮司が祭りごとで折り詰めをもらうことが多く、それは翌日の彼の昼ごはんになる。自転車の荷台に折り詰めをくくりニコニコしながらやってきた。ローストビーフや天ぷらなど豪華だった。

年に何度か家内が料理をつくり西君を農園に招いた。酒を飲ませたら饒舌になり坂本冬美が好きだと打ち明けた。わたしの愛犬「はなちゃん」を可愛がってくれた。

春にタケノコを頼むと、彼はおおきいほど私が喜ぶと思って、おおぶりを数本荷台にくくってきたこともある。
田舎暮らしだから遊ぶところもなく、自分の部屋にスロットマシンの中古を置いていた。
毎月、宇部の医大に検査通院。この日に医大の食堂でカツ丼を食べ、散髪したり服を買ったり、やさしい看護婦もおり検査日が待ち遠しい。

平成24年1月14日の午後、農園そばの川に転落して亡くなった。雪の舞う寒い日だった。享年48歳。

仕事仲間からたくさん教えられ、わたしの糧になった。

自分史6

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神戸震災のとき、拠点の浜山小学校避難所から金光教岬教会に参拝をしていた。4月、春の岬教会大祭で、兵庫県立こども病院の坂本医師(副院長)とご縁ができた。わたしは出版業の名刺を差し上げていた。後日「学会に出す論文を本にしてください」と連絡を受けた。先生の専門は小児水頭症治療で世界的に著名な先生だと知った。

4月末で避難所が閉じられ復興祭という区切りの催しがあり、神戸を離れた。
宇部の街で、わたしの信心の先輩と近隣の金光教教師3人で酒盛りをした。なぜそうなったのかは思い出せない。
二次会にわたしが誘うと教師が「わたしは帰る」と言う。理由を聞いたら。
ご信者さんの夫婦が女の子を授かったが、水頭症と診断された。1週間後に市民病院で手術がおこなわれるが、医師団は新生児の困難な頭の手術ははじめてらしく、教師は毎日手術の成功を神様に祈願している。だから早く帰る。
わたしは酔っていたが一気にさめた「先生。明日お電話します。神様がお力添えくださるかもわかりません」

明くる朝6時を待って、神戸の坂本先生ご自宅に電話をした「これから信州大学に講義に行きます。今夜のホテルを教えますから9時過ぎてお電話ください」

9時に電話をして、手術を受けるSちゃんの状況を伝えた。できれば坂本先生が引き受けてくださる場面を期待しながら。

お返事は早かった「わたしが執刀します。久留米の聖マリア病院に優秀な仲間(Hという金光教信者)がおります。市民病院にはわたしが話をします」
わたしは成り行きに任せ手術が終わって数日後、久留米の聖マリア病院を訪ねてはじめてSちゃんと母親に初めて対面した。それ以来の関わりはなかった。

農園をはじめて、隔週でたくさんご注文くださる方があった。お届け先は自転車屋さん。どうも大勢がこの店を中継されているように思いながら数年通った。あるとき注文されている婦人と自転車屋で遭遇した。このお店が婦人の実家「足立さん」とわたしを呼ばれたが記憶にない「お世話になったSの母です」

わたしの転身に驚かれ、わたしはご縁の深さに驚いた。まさに神様の懐に抱かれての出来事でしかないと感じた。

◆先日、21歳を迎えたSちゃんとご両親が農園に来てくれた。Sちゃんは身体の成長にともない6回もの手術をした。

自分史5


5月末で農園日記のバトンは正志に渡します。
わたしはホームページ「囲炉裏の部屋」を開設します。現在、重枝さんの手ほどきでウォーミングアップしています。

囲炉裏の部屋に入るには。パソコン・スマホとタブレットに対応。

http://adachisusumu.jimdo.com

松江の画像が出てきます。この画面の左下に「サイトマップ」の項目があります。
ここをタップ「日記」をさらにタップで読めるようです。まだ詳しくわかりません。正式に後日ご案内します。

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神戸発災後の19日。金光教本部職員が現地入りするので、わたしも動向した。国道2号線は岡山県内から大渋滞。姫路教会で夕方になり、そこから東に向かう国道と高速道路は寸断されていた。
神戸に入るルートづくりにわたしは姫路教会を出た。夜中に三田市の香山益夫さんと連絡を取り合い、三木市から三田市に入った。三田市到着は早朝だった。金光教三田教会婦人部が教会に集まり徹夜でオニギリを大量につくり「神戸の人に配って」と託された。消防団の制服を着た香山君の車を先に走らせ(消防団車両は優先)新六甲トンネルを越えた。黒煙の神戸市が眼下にひろがる。
電柱もビルも傾き、垂直にたつ構造物が少ない三ノ宮駅近くの金光教常盤木教会に着いた。教会は半壊状態でトイレは使用できなかった。大阪方面に向かって歩く人たちに路上でオニギリを手渡した。
救急車は来ないから自家用車に「透析患者搬送中」と書いた段ボールをはり、警笛を鳴らして大阪方面に行く光景。ガス漏れらしい場所。被災地のど真ん中に来た。
姫路から神戸までのルートを報告していったん宇部に戻った。
神戸市兵庫区浜山の金光教岬教会が全壊し、教会長の福原先生家族が地域の浜山小学校避難所で地域のお世話をされ、現場から手伝える人材派遣を金光教本部に要請された。その一報を受けて神戸行き準備をはじめた。オンボロ1トントラックで走りって浜山小学校避難所に赴いた。
到着した当時、千人ちかい地域の被災者が教室や体育館で身を寄せあっていた。運営委員と呼ばれる若者7〜8人がこの避難所を運営していた。
発災直後に学校関係者と自治会組織が運営にあたったが、満足に届かない水や食料品を配給する困難。夜中は半壊住宅を狙う窃盗団対策。トイレをどうするかなどにお手上げとなり、日ごろは地域で厄介者扱いされた若者が立ち上がり、緊急を要したトイレが使えるように彼らがやった。水はトイレを使う者がバケツでプールの水を持ち込み、紙は流さず袋に入れてゴミにするルールをつくった。
ボランティアという言葉はこの震災以後から使われるようになったのではないかと思う。
音楽教室を与えられ、赤十字から配られた毛布を二枚、運営委員から与えられた。
着いた夜。自衛隊携行缶詰(赤飯)をあたためる作業を手伝った。集められたカセットコンロを教室の床に並べ、湯が沸かせるあらゆる容器にプールの水をいれて缶詰をあたたかくして避難者に夜中まで配った。
深夜、音楽教室に女性ふたりが懐中電灯に導かれて来た。半壊住宅に居た母と娘が暴漢に襲われそうになり逃げてきたと聞いた。ここは秩序が機能しない場所だと感じた。
4月末、復興祭で避難所が閉鎖されるまで、様々なドラマを体験した。
避難所にペットを連れてくることは禁止されていた。小動物は三田市に預ける施設があった。
自宅生活が困難になったおばあさんが愛犬を抱いて来た。犬は預けて来なさいとわたしは言った「家族ですから」と何度も頼まれたが犬は認めなかった。おばあさんは立ち去った。
震災の年にわが家に子犬の「はなちゃん」が仲間入りした「家族」の言葉の重さがやっとわかり、おばあさんは音楽教室に入れてあげればよかったといまでも悔いている。
各地から支援物資が届くようになった。オニギリもたくさん届いた。塩で握ってあれば寒いから日持ちしただろうが、善意で昆布などが入っていたりすると腐っているものもあった。
その夜、配るオニギリがたくさん腐っていた。これしかないが配るには問題があり手をとめていた。花屋のKさん(その日から肝っ玉母さんと呼ばれる)が「ええから配り!」と指示を出した。
配りおえてしばらくして予想した光景に展開した「食えんじゃないか!」と男たちが来た。
花屋のおばさんが目を真っ赤にして言った「食えんけれど、握ってくれた人の気持ちは受けとってくれ」と。

宮崎弁の青年が仕事を辞めて、大型バイクで避難所に手伝いに来た。牧君がその人で、わたしは仕事で宮崎県に通い続けていたので共通の話題が多く親しくなった。

徐々に停電が解消すると、半壊の住宅で漏電がおき火災が各地で発生した。
全国の自治体消防車が消火にあたった。連日の任務に疲れきった消防士が丸めたホースを担いで走る気力がなく足をひきずる。その姿に住民から声援や罵声がかけらる光景を見た。

当時、唐戸魚市場専務だった松村さんに「ふく鍋隊」を浜山小学校避難所に派遣できないか相談をした。震災時4度目の「ふく鍋隊」が浜山に来てくれた。教室や体育館の床に敷いた発泡スチロールは、足が擦れて音が出ることがあり萩市の旅館から提供された大量の畳は特に喜ばれた。

震災から1年後、犠牲者の多かった長田区菅原市場跡に僧侶100名が供養の読経をあげる式典が催され、参列者にふるまう「ふく鍋隊」が編成されわたしも仲間に加えていただいた。
夜を徹して走り、午前6時に現地着。正午に始まる式典にむけ特製おお鍋で準備をした。夕方すべてが終わり、トラックとバスに乗り込んで下関をめざした「ご苦労でした」と松村さんからワンカップ酒2本とおにぎりがみなさんに配られた。
わたしは山口南ICでバスを降りた。みなさんは南泊風で鍋などを洗って解散された。

たくさんの体験をした神戸は、さらに物語が続いていった。

自分史4

2年前入力

ナザレ園訪問は14回。
農園をはじめた年の訪問で最後になった。訪問は必ず釜山フェリーを利用したのは、日本人妻も玄海灘を船で渡られたから船旅にこだわった。
約600名、韓国国内に日本人妻が残されている。ナザレ園はキリスト教徒の寄付で運営され定員は30名。
園では日本人妻に定期的に現金を送金して、領収書で安否確認をされ、定員に欠員ができたら生活に困窮されている人から順番に入園手続きをされていた。
園の慰問滞在は2時間。食堂におばあさんが集い、一緒に唱歌を歌ったり炭鉱節を輪になりおどったり。
日本に一度は帰ったが、朝鮮に渡った理由で戸籍を死亡あつかいされた人もいると聞いた。最後の訪問で下関長府出身の方が、長府の話を聞かせてくれとせがまれた。
園を去るとき、おばあちゃん逹が必ず玄関を出て門までお見送りしてくださる。田畑義夫の「帰り船」の合唱に毎回涙が出る。

創設者の金龍成先生ご夫妻が、夫妻としてはじめて観光で訪日するのでガイドを引き受けてくれないかと、園長の宋美虎(虎年生まれ女性)から相談をいただいた。
帰国した夜。たまたま山口市に鍵山社長が講演で滞在されていたのでご相談した。
九州観光コースがその場で決定した。別府など北部はイエローハット。鹿児島など南部は鎌田建設社長が旅館と案内を担当。わたしは車の運転手に決まった。
鹿児島妙見温泉は、料理の宿「石原荘」。別府は鉄輪温泉で広大な庭園の老舗「神和苑」など一流旅館がセットされた。
金龍成先生ご夫妻に宋美虎園長が随行。金先生と宋園長は日本語が堪能。
金先生と神和苑で露天風呂をご一緒させていただき、風呂あがりに少しのビールをいただきながら先生にお尋ねした。

お父上は日本兵に殺されたと聞きました。けれども、その日本人の女性を、当時は韓国の人から後ろ指を指されながらもなにを理由に保護されたのでしょうか。

それは、韓国の男性を愛してくれ海を渡ってくれた女性が、行き場のない苦労をされていたら助けるのが韓国人のつとめです。
と語られた。

大分イエローハット中津店が新規開店で、矢野社長の案内でカー用品を見学されお土産にたくさん買われた。

わたしにとって光栄な運転手をつとめさせていただいた。

自分史3

2年前入力

20年ぐらい前、金光教信徒会連合本部から連絡があった「今年8月、岡山市で開催される信徒会大会の講師を、イエローハット鍵山秀三郎社長にお願いしてくれないか」と。調べてみると自宅から遠くない場所にイエローハット物流センターがあり、1月11日に鍵山社長が年頭の挨拶に来られる情報を得た。年頭挨拶が終わった午前10時に面会できるよう東京本社の社長秘書にお願いができた。
約束の朝、秘書から電話を受けた「きょう鍵山の予定は過密です。面会は10分程度でお願いします」と。
応接室で10時をむかえた。作業服に長靴のおじさんが入ってきた。掃除の人と思い横を向いていたら「鍵山です」と声をかけられた。作業服と柔和な笑顔。丁寧なおじぎが第一印象。
目的の講演は手帳の予定を確認され「宗教団体はお断りしているのですが、金光教はよく存じています。まいりましょう」と快諾いただいた。
目的は果たせたから、すぐに退席と思っていたら「足立さんは、どんなことを本気でされていますか」と尋ねられた。
戦前・戦中、日本で働く朝鮮人男性と所帯を持った日本人女性が数多くいた。終戦後、夫の祖国に海を渡った。数年後に朝鮮戦争勃発。半島全域が戦場になった。
混乱のなか夫が亡くなり、あるいは消息不明になり、反日感情のたかい異国で言葉もわからず路頭に迷う日本人妻たちが各地にいた。
山中に穴を掘り昼間は潜み、夜になると畑の野菜や残飯を探したり、言葉が不自由な演技をしたり苦労しながら異国とどまった。混乱で別れた夫や子供と再会できるかもわからない望みを抱いて。

彼女たちを保護している「慶州ナザレ園」を知ったのは「ナザレの愛」というビデオ(制作ローヤル)だった。一度訪ねてから、毎年2月に下関から海を渡る訪問団を募り継続していた。2月は寒く園を訪問する人は少ない。わたしが本気でしていることは、毎年ナザレ訪問団のお世話ですと申し上げた。
ビデオ映画「ナザレの愛」は鍵山社長が園をひらかれた金龍成先生(父親は抗日運動で日本軍から殺害された)の民族をこえた博愛精神に感激され、ビデオ映像で世に出された。ローヤルはイエローハット前身の会社名だとその場で知った。
奇しくもナザレ園が鍵山社長とわたしのご縁をになった。
約1時間、応接室で親しく言葉をかけていただいた。主な内容は、お掃除で良い方向にかわるものがある。
もうひとつは「凡事徹底」簡単なことでも続けているうちに、それがわたしの生きる力になりますよ。
鍵山社長と感激のご縁でわたしは掃除をはじめ、広島の井辻栄輔さんともご縁がうまれた。井辻さんが当時楽しくされていたパソコン通信の部屋(パティオ)に仲間入りした。はじめはモバイルするには公衆電話やホテルのモジュラーにパソコンを接続して、ロード2という遅い通信速度でも、毎日かなりの頻度でパティオの会話に参加した。しばらくして携帯電話やPHSに接続できるようになった。
さらに井辻さんが携帯電話のメールを駆使されはじめ、わたしも仲間入りした。
わたしの通信技術は井辻さんとの楽しい会話に育まれた。

ナザレがご縁で掃除につながり、掃除がご縁でたくさんの掃除仲間に恵まれた。

自分史2

2年前入力

28歳で、株式会社ぎじろくセンターを創業した。
会社は自宅(下萩原)の庭に建てたスズキハウスの勉強部屋(50万円)。社員は家内と数人の在宅で録音テープを文字にする主婦。資本金は50万円。市町村議会会議録調製を目的とした。
当時の議会会議録は、議事を録音(主に7号オープンリール・カセットテープはまだ普及中)それを議会事務局職員が聞き取りボールペンで清書していた。しかし年4回の定例議会と随時の臨時議会とあわせ録音時間数が多く苦労されていた。それを仕事として請け負う会社を起業した。
当時は国・県、それに一部市議会では速記者が臨席して音声を符号化し、その後文字にする反訳という形態があり、録音テープから文字を起こすという仕事は全国でも少なかった。

初の契約は秋穂町(現在は山口市)議会。1時間あたり2万4千円が契約単価。在宅のかたは四六時中オープンデッキを止めては書き、少し戻しては書くことに集中した。
下書き原稿が完成したら事務局に校正に出す。職員が聴取不能や地名に人名、行政用語や略語など、わたしどもには不明な点を朱筆で補う。

それを持ち帰り、指定の罫紙にカーボンを敷きボールペンで複写浄書は家内がする。
書き間違いは必ずある。その場合「一字抹消二字挿入」などと余白に訂正を書き、足立の印を押印した。文字の削除や挿入に苦労をした。

30歳のころ、日本語ワードプロセッサという文字の削除や挿入ができる夢のようなOA器機が出現した。
国産初は東芝JW10。価格は650万円。博多の東芝ショールームに見に行った。これは会議録作成に頼もしい道具と思ったが高額で買えない。しかしワードプロセッサがあれば会議録作成は楽になる。いつかは欲しいと思った。

約半年あと、移動中の新幹線で読んでいた雑誌に、富士通が初のワードプロセッサを発売したという記事と資料要請ハガキがあった。必要事項を記入して投函した。

しばらく経って富士通ワープロの営業に大男(もと東洋大学ラグビー部)が軽四に乗ってきた。その後に、わたしの人生におおきな影響をあたえた上田不二男さんが登場した。
当時、宇部市が住民基本台帳や税業務などを委託していた宇部電子計算センターの営業をされていた。計算センターの大型コンピューターが富士通というだけでワープロの知識は詳しくなく「一緒に勉強しましょう」と言われ驚いた。
初代富士通ワードプロセッサ名称は「オアシス100」金額320万円。8インチフロッピーの容量は1メガバイト。16ドットプリンター。おそらく山口県で最初のオアシスユーザーに私はなった。
ワープロ文字だけでも話題になる時期に、ワープロで会議録を作成する会社として各地の議会から注目され契約自治体の数は増えはじめた。自宅を増築して仕事場を広くしたが手狭になり、家賃15万円で琴崎八幡宮そばの軽量鉄骨二階に本拠を移した。

下松市議会に早稲田式速記を習得された優秀な職員、中野さんがおられた。表記の不統一をいつも厳しく指摘された。指摘しても業者をかえようとはされず、わたしどもの会社を育てようとされた。
発言で「きょう」は平仮名。「こんにち」は「今日」と漢字で表記。昆虫や草花はカタカナ表記。そのよりどころは岩波でも三省堂の辞書ではなく、衆参の速記者がよりどころにする日本速記協会発行「標準用字例」に準拠すればよいことを学んだ。
さらに上田部長は和歌山県議会の会議録作成でカセットテープを足で操作し、ヘッドフォンで聞けるレコーダーがあると情報をくださり、調べたあげくパイオニアアンサホンの「ディクターゴーダー」に行き着いた。
足で再生デッキを操作し、両手はキーボードを打てる。会議録業界で先端を走る会社になった。

入力速度・技巧・正確性を競うワープロコンテスト九州大会と中国大会でわが社は優勝した。

録音状態が悪いが、議場設備改修には費用がかかり不鮮明な録音の議会が多く、会議録作成の効率と正確性に影響をした。
議場設備専門会社「株式会社ステップ」を起業し中国・九州一円の議場設備を手がけた。
わたしも議場工事に行き、屋根裏や床下にもぐり配線もやった。

印刷を外部委託から社内印刷体制に整えたのは、社屋を西岐波に建設し、作業スペースができたから踏み切れた。
入力と印刷が自社で可能となり、出版を目的に岡山県金光町(金光教霊地)に「金光出版」を旗揚げした。
全国各地から参拝される教師や信徒のみなさんに、痒いところに手の届くような(教内用語など)気配りで業績をあげた。
わたしは、参拝者が多い金曜日から日曜日を金光で過ごすことが多くなりった。

48歳で会社を辞めた。当時、約200以上の議会と契約。経営はよい会社でバトンを譲れた。

後任社長は白井さん。出版部門は高山さんが引き受けてくれた。
白井社長は、その後行政効率をもとめて全国で市町村合併がひろがり苦難の経営をされたと思う。
高山さんは、ご縁があり金光教今市教会(出雲市)に婿養子。
私たち3人は、それぞれの道を力強く歩んでいる。

自分史1

2014年11月入力

宇部掃除に学ぶ会250回の会報に寄稿した内容を転載

お掃除にであうまえ、よい生き方の願望はありながら、ブレーキのない毎日を過ごしていた。心を定規にあてることができれば、まっすぐか、曲がっているのかわかる。その定規をさがして長年、著名な人の講演を聴いたりや著書を読んだりといろいろ試みたがすぐに取り組んでみようという内容はなかった。

便器を磨いて心も磨く会がある。誰から聞いたのかいまは覚えていない。それを体験してみたい好奇心に、どこで誰に会えばそれが叶うかアンテナをはっていたら、イエローハットに手がかりがあると知り、当時山口県から九州一帯にイエローハット店舗を展開されていた垣内社長を山口市に訪ねた。
そこで、広島掃除に学ぶ会が近々に鍵山先生(当時イエローハット社長)を広島市にお招きして講演会を開催されると日時を教えていただいた。

ひとり広島に行き、中国新聞社ホールで講演「箸よく盤水をまわす」箸で盤水の水をまわすと最初は水は動かないが、根気よく続けると盤水の水は回りだす。小さなことでも続ければ、やがておおきな力になる。トイレ掃除もひとりから始めて続けるうちに自分の生き方がかわり、そのことで会社や家庭もかわりはじめると感動的な講演を拝聴し、探していたものを見つけた気がした。心を磨く掃除をやると決めた。
講演会場で広島掃除の会代表の井辻さん(人生を楽しく生きる達人)が北京掃除に学ぶ会を案内され、その場で申し込みをした。

その後、山口市のイエローハット物流センターの貞方所長を訪ねてセンターで社員さんが毎朝行われる掃除に加えていただき、床やタイルに両手をついての掃除。歯ブラシやタオルをぞんぶんに使う掃除を体験するうちに、仲間を募り宇部で会をはじめたいと思うようになった。貞方所長に会をつくりたいと相談をした。宇部で会をはじめるには、参加者が増えても便器の数が足りる学校がよいと貞方所長からアドバイスをいただき、市内の学校いくつかを歩き掃除会場の提供をお願いしたが相手にもされなかった。理由は、学校の便器を磨くため外部の者を入れたことがない。しかも休日に鍵をあけることは職員の余計な仕事になる。生徒のトイレは生徒にさせる。教師のトイレは業者に委託されていた。

それでも借りなければはじまらない悩みを東岐波の磯村千代子先生(元小学校教師)に相談に行った「わかった!」とその足で東岐波小学校校長室に向かわれた。わたしも同席して校長から承諾を得た。それは運動場にある古い便所。運動会で使用するぐらいで掃除はされていない。鍵をあける必要はない。つまり勝手にやりなさいということである。

記念すべき「第一回宇部掃除に学ぶ会」は、菊川画廊の菊川さん。高山清さん。貞方所長。わたし夫婦の5名でスタートした。東岐波小学校のくみ取り便所は汚れておりたいへん苦労した記憶がある。
掃除をおえて間もなく、宇部市教育委員会の方から個人的な手紙が届いた。内容は、私たちが東岐波小学校で行ったことは非日常的すぎる行為である。という批判的なことだった。反論はせず無視をした。
当時、岐阜の大正村で全国の有志が鍵山先生を中心に掃除を発足してあまり日がたたない時期であり、いろいろな会合で掃除に対する地域の無理解を聞いていたから、その手紙に驚くことも立腹することもなく、むしろ噂どおりの反応があったことに達成感があった。

お湯を沸かすガスの大きな火口とアルミのずん胴鍋は垣内さんから寄贈いただいた。掃除会場まで参加者を誘導するたくさんの種類の看板(電柱に針金でつける)は広島市事業立地の佐古社長から寄贈いただいた。
毎月、東岐波小学校の便器に数名で向き合っているうちに体験してみたいという方があらわれるようになった。掃除が終わり体験発表もプログラムになり、その後の朝食は家内が担当になった。

ある団体の役職をいただき、定期的に会議に出るようになった。あるとき提案した「会議のまえ、短い時間でも会場周辺の清掃をしませんか」と。掃除が大切なことぐらいは知っていると言わんばかりの失笑をかった「知っている」と「やっている」のちがいをのべても無駄な空気だった。わたしも「知っている」の側に以前はいたから笑いは理解できた。

鍵山先生にはたくさんのご指導を頂戴した。それを言葉にすれば「謙虚」。わたしにまで深々と頭を下げられる。掃除に学ぶ会草創期の全国の志たかく生きておられる方々にも親しくしていただき会報「清風掃々」発刊メンバーにも加えていただいたことは人生の金メダルと思っている。

50回の記念掃除は、県鴻城高校を会場に盛大に催された。この会をもってわたしは宇部の会から離れ、農園でハンディを持つ人と鶏を飼うことに専念をはじめた。
以来約13年。自宅に戻らず農園で寝起きしている。食事の都度食器を洗い棚にしまう。台所は使う度に磨く。トイレと風呂も新品にちかい輝きが維持できている。
当たり前のことができるわたしにお掃除が育ててくれた。

宮川さんから依頼を受け、250回記念のお祝いに、わたしの思い出を書かせていただきました。
お掃除仲間のみなさんありがとうございます。
足立進

仁資さんええ男

佐々木仁資(じんすけ)さん。萩掃除の会重役。萩市から山間部にわけ入る限界集落で酒屋を営んでいる。
彼をほめる人はいても悪く言う人はいない好人物。ただ一人で五人分ぐらい会話がやかましい。
今月の萩散策は彼に初め相談を持ちかけた。ところがわたしの思うように運ばないから「相談はなかったことにしてくれ」と2月ごろ断り、観光協会を窓口に計画を進めた。
なんとも後味が悪い結果になった。赤崎小学校の掃除に参加するなら、前夜は農園に泊まらないかと電話で誘ったが煮えきらない返事(彼には事情があったことが後から知った)
今回、熊本震災「ふく鍋隊」に彼が参加したことを岡本拓也さんがフェィスブックにアップした。出発と解散は下関。むつみ村の山奥から家業返上で彼は行った。わたしは仕事をした。
昨夜、わたしの晩酌が終わるころ、まだろれつがしっかりしている時間に電話をした。
萩散策では少しわたしが言い過ぎた。そのお詫びもあわせて熊本行きの労をねぎらった。
いつもの下ネタ話しで始まり、おもしろ可笑しく会話ができた。お掃除仲間は兄弟のようだと感じた「また酒をさげて農園に行くから」で会話は幕になった。

今朝、きのう暴風雨で木々が散乱したお宮の参道を、西君の弟が掃き掃除。お互い会釈で気持ちがよかった。

明日から自分史を日記にアップする。

荒天の一日

強風と大雨はきのうからの天気予報。
5時半、タブレットで雨雲レーダーを確認したら響灘海上まで雨雲は来ていた。愛犬を連れ出し早めの散歩。帰りの橋を渡るころから小雨になった。

日中は強風でハンドルのようには走らず蛇行するよう。雨は瞬時に全身を濡らす。
3時過ぎに給油のセルフ。事務所から「雨水がガソリンタンクに吹き込むから止めたほうがええ」と声をかけられたが、ずぶ濡れになり給油をした。明日の早朝から走る燃料が底をついていた。
暖房と冷房を強風モードで使うと衣類は案外乾く。
ヘトヘトで4時に農園に戻った頃から雨があがり嵐が去った。
早めに布団にもぐり、明日の鋭気をたくわえたい。

加奈ちゃん応援団

タブレットをはじめて7月でまる2年。まだ不慣れなことはあるが日常使う「新聞」全国紙タダ読みは、辺野古なら沖縄。震災なら熊本とエリアを選べばより詳しい。
「天気」は国土交通省エックスバンドレーダーなど6つの気象がひとつ画面でわかる。
「アルバム」は分類できるアプリ。なかでも配達中に撮るシーンは徒然にと題して、わたしの記憶が整理できている。
ネットラジオ「らじる・らじる」は山間地域の移動には活躍。
マッピングは、新規お客さまに行くときにはナビゲーターになる。1ヶ月で5ギガバイトをこえたことはあまりない。
山口宇部経済新聞を今朝読んでいたら、加奈ちゃん「プチラボベーカリー」が、工房(じたく) での販売を始めた記事が加奈ちゃん写真入りで紹介されていた。スクリーンショットの画像添付で加奈ちゃん送信しておいた。先ほど「おいちゃん!メール」が着信。本日も完売でしたと。
プチラボベーカリー(検索)の応援お願いします。

公開できる自分史が章にして16ある。今月でわたしの農園日記を終わるので(継続は正志)、5日から日記に連載する。

皐月晴れでスタート

きのう夕暮れどきに川土手の草刈を済ませた。早朝は夜露が草におりて服や長靴に草刈機がたいへん汚れる。日中は日射しが強いからパス。
結果的に疲れていても夕暮れどきがよい。

今朝、屋根いっぱい布団をひろげて山口市内。用事を済ませてカボチャとゴーヤの苗を買いにホームセンターに行くと大混雑。
植えどきのキュウリやナスなどたくさんカゴに入れる人。カートに堆肥を山盛りの人。長蛇のレジ待ちは炎天下。きょうはポイント5倍も混雑の理由らしい。苗はまた買いにくることにした。

熊本被災地に赴いた「ふく鍋隊」はテレビやラジオで活躍が伝えられた。
松村御大と関係者13名(お掃除仲間多数)はふく300キロを内容に「ふく鍋」2000食を、きのう夕食と、きょうの昼食二回にわけて御船町の被災者みなさんにふるまわれた。

わたしは、神戸浜山小学校避難所で「ふく鍋隊」から1000食を被災者の人たちと同じようにいただいた。帰る場所がある私と、ぐちゃぐちゃの生活のみなさんとは、一杯の「ふく鍋汁」の受けとめかたはちがうかもわからない。
みなさんは一様に、下関を発ち一杯のふく汁をふるまいに駆けつけたその声援を「うまい!」と言った。心を味わうことがわかった。
熊本行きの仲間を誇らしく思った。