日別アーカイブ: 2016年5月13日

自分史9

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わたしが40歳のころ。
宇部に高垣という重度脳性麻痺の老人がいた。父親は「怪傑ハリマオ」原作者らしい。
高垣さんは食品公害問題に取り組まれ、著書「猫・猿そして人間」(水俣病のように体の小さい動物から食物連鎖で発症する)の出版でお手伝いをした。
その高垣さんから「知り合いが自費出版するから会ってくれ」と頼まれ、周東町「亀の里アパート」に50歳過ぎの男性Kさんを訪ねた。重度の脳性麻痺で歩行はできない。言葉もなかなか理解が困難だった。
アパートでは、彼のようなハンディを持つ男女が10数人、以前は伝染病隔離病棟だった建物で部屋毎に生活の場を持っていた。
みなさん全国の施設からここに自由を求めてやってきた。施設では規律にもとづいた生活の繰り返しで人生が終わる。
起きる時間に寝る時間。献立もきめられ酒やタバコはご法度。風呂に散髪などまで管理されると刑務所とかわりはない。そこから脱出した連中をキリスト教が「アパート」として受け入れていた。
Kさんの部屋は這って炊事ができるように、畳の高さに炊事場がつくられ、週に2日障害者年金のなかからヘルパーを雇い食品などを買い物してもらい自炊していた。
廊下を這いトイレに行く住人をみたとき、それは初めてみることで、正直な感想は異様だった。
Kさんの、理解がむつかしい発音を懸命に聴き、わからないことは何度も尋ねて自費出版のアウトラインが理解できた。
出版の目的で年金を長年貯めた100万円がある。原稿もある。本のタイトルは「孤独の挑戦」で300冊を90万円で請け負わないか。10万円は出版記念会に充てる。それが彼のプラン。
原稿をみて活字の量からページ数を出さないと返事ができないから原稿を見せてくれと言った。
彼が示した箱に原稿用紙が分厚く重ねられ、達筆の鉛筆文字だった。誰が書いたのか尋ねたら「牧師の奥さん」書き上げるのにどのぐらい時間がかかったのかと聞いたら「14年」と答えた。聞き書きで脱稿。やらねばならないと腹を決めた。
「孤独の挑戦」と題された内容はKさんの人生。
京都で戦時中に誕生。首がすわる時期を迎えてもすわらない。医者の診察で麻痺があると告げられた。
その頃、召集により父は出征。母は生活に困窮して育児を放棄し蒸発。父方の祖父と困難な生活がはじまった。祖父は生活の糧をえるため土木作業などの労働をした。仕事に出る前におむつを替える。Kさんの昼ごはんはパン。夕方、祖父はもどり夕飯の支度と汚れた衣類やおむつの洗濯を毎日した。
この時期、汚れたおむつを、疲れて戻った祖父に洗わせることが申し訳なく思った彼は、這ってトイレに行くすべを身につけた。おむつは無用になった。
高齢で働けなくなった祖父は行政の世話で東京府中の老人ホームに移送され、Kさんも東京の施設に入れられ二人は会うことを失った。
Kさん紆余曲折を経て新天地を山口県にもとめてアパートに来た。
本ができるまで打ち合わせなどでアパートに通い続けた。わたしの差し入れは小さい巻き寿司が彼には食べやすかった。昼間からカップに入れた日本酒をストローで飲みながら巻き寿司を食べた。アパートの住人たちとも仲良くなった。
本が出来上がり、Kさん主催の出版記念会がアパートで挙行された。わたしも招かれ楽しんだ。宴席で彼に「この本をじいちゃんの墓に供えようか」と言ったら「頼む!」と頭を下げた。
一週間後、彼から託された「孤独の挑戦」と酒に線香を持って、本にあった府中の老人ホーム「養育院」に行った。受付で訪問の目的を告げた。職員さんが献身的にじいちゃんの記録を探してくださり、じいちゃんは養育院の無縁仏に納骨されていることがわかった。場所は多摩霊園。多摩霊園に着いたのは夕方で管理人はいなかった。広大な霊園でその無縁仏の墓を見つけるのは困難かと思ったら案外早く発見できた。
墓にお供えして線香も供え、それを写真に撮った。
後日、アパートに写真を持参したらKさん最高に喜んだ。それ以後彼には会っていない。
半年ぐらいして養育院から電話があった。
あれから調べてみたら、最後は病院で亡くなり、その後が不明。つまり多摩霊園にじいちゃんはいないことが判明した。
けれども、そのことはKさんには伝えてはいない。