日別アーカイブ: 2016年5月9日

自分史5


5月末で農園日記のバトンは正志に渡します。
わたしはホームページ「囲炉裏の部屋」を開設します。現在、重枝さんの手ほどきでウォーミングアップしています。

囲炉裏の部屋に入るには。パソコン・スマホとタブレットに対応。

http://adachisusumu.jimdo.com

松江の画像が出てきます。この画面の左下に「サイトマップ」の項目があります。
ここをタップ「日記」をさらにタップで読めるようです。まだ詳しくわかりません。正式に後日ご案内します。

2年前入力

神戸発災後の19日。金光教本部職員が現地入りするので、わたしも動向した。国道2号線は岡山県内から大渋滞。姫路教会で夕方になり、そこから東に向かう国道と高速道路は寸断されていた。
神戸に入るルートづくりにわたしは姫路教会を出た。夜中に三田市の香山益夫さんと連絡を取り合い、三木市から三田市に入った。三田市到着は早朝だった。金光教三田教会婦人部が教会に集まり徹夜でオニギリを大量につくり「神戸の人に配って」と託された。消防団の制服を着た香山君の車を先に走らせ(消防団車両は優先)新六甲トンネルを越えた。黒煙の神戸市が眼下にひろがる。
電柱もビルも傾き、垂直にたつ構造物が少ない三ノ宮駅近くの金光教常盤木教会に着いた。教会は半壊状態でトイレは使用できなかった。大阪方面に向かって歩く人たちに路上でオニギリを手渡した。
救急車は来ないから自家用車に「透析患者搬送中」と書いた段ボールをはり、警笛を鳴らして大阪方面に行く光景。ガス漏れらしい場所。被災地のど真ん中に来た。
姫路から神戸までのルートを報告していったん宇部に戻った。
神戸市兵庫区浜山の金光教岬教会が全壊し、教会長の福原先生家族が地域の浜山小学校避難所で地域のお世話をされ、現場から手伝える人材派遣を金光教本部に要請された。その一報を受けて神戸行き準備をはじめた。オンボロ1トントラックで走りって浜山小学校避難所に赴いた。
到着した当時、千人ちかい地域の被災者が教室や体育館で身を寄せあっていた。運営委員と呼ばれる若者7〜8人がこの避難所を運営していた。
発災直後に学校関係者と自治会組織が運営にあたったが、満足に届かない水や食料品を配給する困難。夜中は半壊住宅を狙う窃盗団対策。トイレをどうするかなどにお手上げとなり、日ごろは地域で厄介者扱いされた若者が立ち上がり、緊急を要したトイレが使えるように彼らがやった。水はトイレを使う者がバケツでプールの水を持ち込み、紙は流さず袋に入れてゴミにするルールをつくった。
ボランティアという言葉はこの震災以後から使われるようになったのではないかと思う。
音楽教室を与えられ、赤十字から配られた毛布を二枚、運営委員から与えられた。
着いた夜。自衛隊携行缶詰(赤飯)をあたためる作業を手伝った。集められたカセットコンロを教室の床に並べ、湯が沸かせるあらゆる容器にプールの水をいれて缶詰をあたたかくして避難者に夜中まで配った。
深夜、音楽教室に女性ふたりが懐中電灯に導かれて来た。半壊住宅に居た母と娘が暴漢に襲われそうになり逃げてきたと聞いた。ここは秩序が機能しない場所だと感じた。
4月末、復興祭で避難所が閉鎖されるまで、様々なドラマを体験した。
避難所にペットを連れてくることは禁止されていた。小動物は三田市に預ける施設があった。
自宅生活が困難になったおばあさんが愛犬を抱いて来た。犬は預けて来なさいとわたしは言った「家族ですから」と何度も頼まれたが犬は認めなかった。おばあさんは立ち去った。
震災の年にわが家に子犬の「はなちゃん」が仲間入りした「家族」の言葉の重さがやっとわかり、おばあさんは音楽教室に入れてあげればよかったといまでも悔いている。
各地から支援物資が届くようになった。オニギリもたくさん届いた。塩で握ってあれば寒いから日持ちしただろうが、善意で昆布などが入っていたりすると腐っているものもあった。
その夜、配るオニギリがたくさん腐っていた。これしかないが配るには問題があり手をとめていた。花屋のKさん(その日から肝っ玉母さんと呼ばれる)が「ええから配り!」と指示を出した。
配りおえてしばらくして予想した光景に展開した「食えんじゃないか!」と男たちが来た。
花屋のおばさんが目を真っ赤にして言った「食えんけれど、握ってくれた人の気持ちは受けとってくれ」と。

宮崎弁の青年が仕事を辞めて、大型バイクで避難所に手伝いに来た。牧君がその人で、わたしは仕事で宮崎県に通い続けていたので共通の話題が多く親しくなった。

徐々に停電が解消すると、半壊の住宅で漏電がおき火災が各地で発生した。
全国の自治体消防車が消火にあたった。連日の任務に疲れきった消防士が丸めたホースを担いで走る気力がなく足をひきずる。その姿に住民から声援や罵声がかけらる光景を見た。

当時、唐戸魚市場専務だった松村さんに「ふく鍋隊」を浜山小学校避難所に派遣できないか相談をした。震災時4度目の「ふく鍋隊」が浜山に来てくれた。教室や体育館の床に敷いた発泡スチロールは、足が擦れて音が出ることがあり萩市の旅館から提供された大量の畳は特に喜ばれた。

震災から1年後、犠牲者の多かった長田区菅原市場跡に僧侶100名が供養の読経をあげる式典が催され、参列者にふるまう「ふく鍋隊」が編成されわたしも仲間に加えていただいた。
夜を徹して走り、午前6時に現地着。正午に始まる式典にむけ特製おお鍋で準備をした。夕方すべてが終わり、トラックとバスに乗り込んで下関をめざした「ご苦労でした」と松村さんからワンカップ酒2本とおにぎりがみなさんに配られた。
わたしは山口南ICでバスを降りた。みなさんは南泊風で鍋などを洗って解散された。

たくさんの体験をした神戸は、さらに物語が続いていった。