自分史7

2年前入力

農園をはじめて間もないころ、地域在住で足の不自由な女の子(20代)Mちゃんが農園で働くようになった。
家庭の事情で彼女が「おばさん」と言うおばあさんの家から農園に通った。おばさんの家は山すそでも高い場所にあったが、彼女は障がい者用に改造した軽四を運転して往復した。
ある年の冬は寒さが厳しく、路面が凍結した日は正志がMちゃんを送迎した。
その朝は氷点下5度まで冷え込んだ。わたしは早朝から採卵をはじめ7時過ぎごろ、農園に向かって歩いてくる二人の姿が、遠く目にとまった。滑らないように慎重に、ゆっくり歩く。身体が大きく左右に揺れるのは足が不自由なMちゃん。その後ろは小さな身体のおばさん。
昨夜、正志が「明朝は迎えに行きます」と電話をしたら「いや、ええです」とおばさんが断ったと正志から聞いた。
Mちゃんに歩いてきたワケを聞いた。昨夜、正志の申し出を断ったおばさんが「人様に甘えるクセはようない。歩いて行け、ワシもつきあうから」
二人は凍結した下り坂を、時間をかけて歩き、おばさんはMちゃんを農園に送りとどけて坂道を上って帰った。
理屈で教育するわたしには、身をもって教育されたおばさんの後ろ姿が、いまでも脳裏に刻まれている。

自閉症のS君。支援学校から実習で農園に来た。その縁で農園で働くことになった。宇部線電車で終点の宇部駅、バスに乗り船木の終点まで。そこから農園までには経由地があり1時間。片道約2時間の通勤。バスから降りて農園まで、例えば橋を歩く彼の「こだわり」は歩数。渡りきる歩数が納得できないから何度も橋を往復して、納得できる歩数になったら来る。鶏の鳴き声に「やかましい!」と興奮して怒鳴る。それを「やめんか!」と制止したら気持ちのはけ口を失い、鶏舎の壁を拳から血が流れるまで叩いた。そのシーンを思い出す度にS君にお詫びの気持がする。
自閉症について、わたしはまったく勉強しないままS君に接した。自閉症の人のなかには、わたしの何十倍も聴覚が敏感な人がいることを最近知った。
鶏に「やかましい!」と怒鳴るS君に無理解だった。彼は辞めた。わたしはそのとき肩の荷がおりたような気がした。しかし、いまはS君をまったく理解していなかったことに大きな反省がある。

自閉症のこだわりが理解できたことがあった。
あるとき、その日の都合で配達コースを変えなければならないことになった。いっそのこと逆まわりに走ろうかと思ったとき頭が混乱した。
いつも決めた順路で走れば、車を停める場所。トイレやコンビニなど決めたように走れば安心できる。逆まわりは想像しただけでも不安になる。わたしも「こだわり」の生活をしている。

農園をはじめたとき、高校不登校のT君をあずかった(彼は岡山県)。小郡町にまかないつきの下宿を岩城(当時、小郡町町長)さんのご紹介で落ち着いた。わたしは彼が農園で力をつけてほしいと願っていた。
山口高校定時制に入った。級友は彼より年下。授業が終わると夜の街でクラスメイトと遊び、そのお金はT君が兄貴面して払った。なんとかバンクで借金してまで兄貴を演じた。返済のため昼ごはんもキャンセル。地域の仕出屋「やなぎ屋」のご好意で300円の豪華弁当を買うお金もなかった。
結局、学業は浪費で破綻し両親が連れて帰った。親が親身に関われるのなら、なぜ農園に預けたのか。疑問はいまも残る。

もう一人のMちゃん。耳が不自由で自宅生活。二十歳前にある方の紹介で働きはじめ、いまも通っている。
働きはじめて間もないころ地域の方が「おたくで働く女は挨拶もせんし、車のクラクションも無視する。横着者じゃ」とわたしに言った。地域のみなさんに耳と会話が不自由なことをお知らせしなかったから問題になった。事情を説明した以後、みなさんあたたかく見守ってくださる。もう30歳ぐらいになろう。

西君。吉部八幡宮に弟と二人、幼いとき家族として迎え入れられた。軽い知的障がいと、てんかんの持病があり学校卒業後、宇部市内に左官職人をめざして弟子入りした。20数年、親方に鍛えられたが持病の発作が多くなり辞めた。八幡宮にもどり仕事を探していた。誘いに応えて農園で働きはじめた。
とにかく正直者。体力は左官で鍛えられ、スコップを使わせたら職人技。
お宮の宮司が祭りごとで折り詰めをもらうことが多く、それは翌日の彼の昼ごはんになる。自転車の荷台に折り詰めをくくりニコニコしながらやってきた。ローストビーフや天ぷらなど豪華だった。

年に何度か家内が料理をつくり西君を農園に招いた。酒を飲ませたら饒舌になり坂本冬美が好きだと打ち明けた。わたしの愛犬「はなちゃん」を可愛がってくれた。

春にタケノコを頼むと、彼はおおきいほど私が喜ぶと思って、おおぶりを数本荷台にくくってきたこともある。
田舎暮らしだから遊ぶところもなく、自分の部屋にスロットマシンの中古を置いていた。
毎月、宇部の医大に検査通院。この日に医大の食堂でカツ丼を食べ、散髪したり服を買ったり、やさしい看護婦もおり検査日が待ち遠しい。

平成24年1月14日の午後、農園そばの川に転落して亡くなった。雪の舞う寒い日だった。享年48歳。

仕事仲間からたくさん教えられ、わたしの糧になった。