自分史 14

金光出版で全力疾走していた時期に宇部と金光は山陽道が開通した。アクセル全開で走れば3時間「こだま」より速かった。

常宿は新倉敷駅近くのセントイン倉敷か、福山第一ホテル。
セントインに泊まるときは、金光教本部に在籍する青年教師を誘い酒盛りをした。玉島のポプラという焼肉屋はホルモン専門。ビールとホルモンと大盛飯と不健康なメニューが旨かった。

新幹線、新倉敷駅前の焼鳥「鳥田金(とだきん)」で青年教師と酒のせいで熱く語った。閉店になり、支払いを済ませて店を出たら店主が「ちょっと」と野太い声で店から出てきた。
わたしが話していた内容を、カウンターの向こうで聞いていたらしい。わたしの考えに持論を長々喋る。面倒になり歩きはじめたらホテルまで話ながついてきた。ロビーで遅くまで店主の話を聞かされた。
店主の名前は趙さん。北朝鮮が本国。大柄で顔は怖いが酒は飲めない。以後、鳥田金の常連客にわたしはなった。
ある時、閉店までひとり飲んで酔った。趙さんがとなりに座り、また長い話をはじめた。
趙さんの母は終戦直後に大阪から玉島(倉敷近く)の同胞を頼ってきた(おそらく娘時代)汽車賃が岡山駅までしかなく、岡山から玉島まで60キロ、8月の炎天下を歩いた。
母が亡くなり、趙さんは母の追体験をやろうと決め、8月の炎天下に岡山から玉島まで歩いた。歩きながら母の苦労に涙が出た。その話に、私も涙が出た。

農園をはじめて間もないとき、趙さんご夫妻が突然来られた。農園の門出に民族カラーの派手な布団をちょうだいした。

今でも「どうしちょるなら」「元気か」と電話がある。