自分史 15

簡単なことでも続けること、手を抜かないことが大切。それを「凡事徹底」の四文字で鍵山先生は説かれる。わたしの凡事のひとつに「歩く」を決めた。40歳の頃だった。

宇部市常盤公園。常盤湖一周の遊歩道は6キロ。出張と大雨の日以外は歩いた。
公園清掃は知的障がいの人が行い、わたしが夕方歩くとき家路を急ぐ清掃をおえた人と前後して歩くこともあった。わたしより年上の男性と歩きながら仲良くなった。時計は見方がわからないからバスは利用しない。片道約1時間かけて自宅と職場を歩く。ひとり暮らしで炊飯器の使い方は覚えた。夕方戻ったら月曜日から土曜日まで、鍋を持って歩く近所のコースが決まっている。少しのおかずを数軒からいただき、今夜、明朝と弁当の三回にわける。彼が決まった曜日に来なかったらみなさんは心配になる。
彼は、日曜日お世話になる家を草刈りなどで手伝いをする。地域と共生するひとつのかたちを知った。大切なことを歩くなかで知ることができた。

日曜日、時間のあるときは愛犬(はなちゃん)と常盤湖を歩いた。2周歩き3周目の中ごろ犬が疲れて動かなくなり抱いて歩き終えた。犬はあまり歩かないとわかり、時間のある日は、床波駅始発、5時過ぎの宇部線に乗り小郡駅。その日の気分で山口駅か防府駅に7時ごろ着き、駅のうどんを朝食にして自宅まで歩いた。どちらの駅からでも夕方6時ぐらいには自宅に戻れた。運転では見えないたくさんの風景などもあり、その上に達成感があった。歩く魅力を知った。

仕事先で大好きなところは宮崎県。当時は高速道路はなく、国道10号線をひたすら南に下り、宇部から12時間で南国宮崎市に着いた。
居酒屋は、肉も魚も野菜も焼酎も旨くて安い。宮崎空港までの道路や市内もフェニックスの街路樹は南国情緒たっぷり、宮崎空港のからくり時計は、天岩戸伝説をからくり人形が舞う。
一ツ葉道路から望む太平洋の雄大な景色。
飫肥から杉を運ぶための堀川運河の赤レンガ倉庫は小樽よりわたしのお気に入り。
どっしり腰をおろした霧島山麓。
1年のうち50回もレマンホテル(ビジネスホテル)に宿泊した年もあった。大好きな宮崎県を歩いてみたい気持ちがふくらみはじめた。
1996年11月(45歳誕生月)鹿児島掃除に学ぶ会年次大会に出席した(牧君も馬場さんも来た)。閉会してから宮崎市に移動、常宿のレマンホテルに宿泊。翌日、月曜日の7時にリュックを背負って歩きはじめた。金曜日の夕方まで歩けるところまで歩いてみようと計画をスタートした。この旅を「45歳 旬の旅」と命名した。
毎日50キロメートル以上歩き、阿蘇高森駅で金曜日の夕方をむかえた。全行程約250キロ徒歩の旅。
毎日、足の痛みに耐えたのはいまではよい思い出になった。途中何度か涙をながした。
延岡のホテルでは、足と腰の関節が炎症をおこして腫れて痛くて、冷やせばよいのかあたためたほうがよいのかわからず、眠れない長い夜だった。
朝5時にホテルを出発。高千穂まではずっと上り坂で50キロメートルある。いつも仕事で車で走りわかっている。会話をすることが少なく、途中の北方町役場議会事務局に人恋しくてたち寄った。いつもの服装とちがう私に、職員さんは驚かれた。宮崎市から数日歩いて来て、きょうは高千穂まで歩くことが話題になった。女性の職員さんが「少し待ってください」と小走りで部屋を出た。しばらくして「名産品の次郎柿ブランデー漬け」をふた袋をリュックに入れてくれた。
その日は昼食の食堂がなく、単調な上り坂を歩き続けた。リュックにパンを持っていたが、ついてきた野良犬に食べさせて、わたしの食べるものがない。飲み物自販機はあったが小銭がなかった。
午後2時。身体も気持ちもヘトヘトになったとき次郎柿を思い出した。ガードレールをまたいで草むらに腰をおろして柿を夢中で食べた。食べながら涙がこぼれた。嬉しくて泣いた。

高千穂も早朝に歩きはじめた。阿蘇外輪山に上る途中の久木野村。白い服装が大勢いた。オウム真理教が本拠地を築いていた。
外輪山の頂きに立ち、眼下に阿蘇内牧が航空写真のように拡がっている。その日、疲労の限界でカメラをどこかに落とした。カメラがないから、この素晴らしい景色を心のカメラに刻もうと、しっかり心のシャッターをきりながら山を下った。あまりの美しさに涙がこみあげた。カメラがなくてよかった。
阿蘇高森駅の公衆電話で自宅に「終わった。これから帰る」と告げて、また涙がこみあげた。
柿で生かさた実感の涙。景色の美しさに感動の涙。全力を出し切った清々しい涙。
250キロメートル歩けた旬の旅。
いまもわたしは毎日歩いている。