自分史1 0

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母が30数年も山大工学部職員として勤めた退職金の全額を、西岐波下萩原の建て売り住宅(ヤクルトホーム)購入に費やした。
敷地面積は50坪。隣接の50坪をわたし名義で買い、母とわたし夫婦の同居がはじまった。長男(正志)は野中の借家時代に生まれ。照美と真砂恵はこのヤクルトホームで生まれた。
会社(ぎじろくセンター)は、敷地の中に建てたプレハブ小屋からスタートした。
母が汗水をかいて働いた退職金が、わたしの生活と起業の基盤になった。

わたしは西岐波の住人になった。床波漁港に近いせいもあり、魚釣りが好きで4級船舶免許をとり釣り船を手に入れ、床波港に船を係留した。
港を出入りするとき必ず間近に通過するものは、海面から突き出た円筒形の2本のコンクリート構造物、それに関心はなかったが、港で釣り仲間と交わす会話で、その構造物は海底炭鉱の坑道に空気を入れ、空気を排気する役目の炭鉱用語で「ピーヤ」と教わった。
昭和17年2月3日の午前6時。いわゆる「水非常」とよばれる海水の流入で184名の命が奪われ、遺骨はまだ海底に遺されたままという背景があった。
当時、金光教沖縄遺骨収集奉仕に加わり、毎年2月に沖縄に通っていた。遺骨より慰霊がどうなっているかが気になり、わたしの長生炭鉱がはじまった。

慰霊碑があると聞き、ピーヤから直線上の陸地に足を運んだ。立派な「殉難の碑」が有志により建立され、水没事故で亡くなった184名のうち、約130名が朝鮮半島から来た労働者。ほかにも中国(支那)や沖縄からの人らしい名前が刻まれていた。
床波のご高齢者に当時のことを聞くとご存じの方が何人もおられた。特にIさんは弟が長生炭鉱職員であり詳しくご存じだった。弟さんは後日陸軍に召集され戦死。Iさんは久留米で陸軍憲兵のとき終戦。
わたしが関心を持ちはじめたころ、もうお二方が長生炭鉱を調査されていた。
一人は、強制連行された外国人労働者が強制労働を強いられた。その裏付けを得るための調査。
もう一人は、KRYテレビ。当時取締役の磯野恭子(やすこ)さんは、事故の歴史を風化させないための記録番組制作の目的だった。

わたしは海岸に炭鉱社宅の一部があり、そこで生活されていたHさん老夫婦を訪ねた。じいちゃんは炭鉱関係者だったが、わたしが話を聞きに行くと「帰れ!」と追い払われていた。身体が不自由なばあちゃんの介護でわたしに付き合う気持ちの余裕はない様子だった。
何度か訪れたあるとき「茶を飲むか」と言われた。上がり口に腰をかけて汚れた湯呑みが出された。じいちゃんは電気工。事故当日、採炭現場で水漏れがあるから念のため電話機をつけるよう緊急に保安係から要請され、深夜に坑内に入り最先端に連絡電話機を取り付けて坑道から出た。水没事故発生は午前6時。
毎月一度「大出し」と呼ばれ、採炭ノルマが多く課せられる日があり、昭和17年2月3日も大出しの日だった。ノルマ達成のため採炭夫たちは上に向かった(海底)危険な鉱脈を掘った。海上を行き交う船のスクリュー音が聞き取れた。漏水場所にはコンクリートなどでとめることはなく、草などを詰めて応急処置をしていた。
じいちゃんは通うたびに当時の炭鉱生活を話してくれるようになった。わたしは自宅で多目にできたおかずなどを持って行った。
山口放送の磯野恭子さんに「当時を話せる人がいる」と連絡。後日、テレビカメラと磯野恭子さんがじいちゃんを訪ねて短時間の取材をした。この取材が大きな意味をもたらした。
数日後、夕方のKRYテレビニュース番組でその取材が短く報じられた。
筑豊の宮田町でたまたまその番組をみた人がいた。15歳で韓国から働きに来た、A順得さん「Hさんだ!」と当時たいへんお世話になったじいちゃんを見つけた。すぐにテレビ局に「Hさんにあいたい」と電話をかけた。その内容が折り返しわたしに届き、わたしは宮田町にAさんを訪ねた。
当時の韓国は生活にあえいでおり、日本に行けばご飯を食べさせてくれる仕事がある。辛抱したら家族を呼び寄せることもできる。
その話を聞いて海をわたり同胞の世話になりながら長生炭鉱についた。けれども現実は厳しく、例えば給料は炭鉱の売店でしか使えない金券で至急され、日用品などもすべて金券で売店で買う。経営者は大儲けできるシステムになっていた。金券を日本人に買ってもらい、わずかな日本円が手にできたら住吉座に映画を観に行ったり、羽衣屋で甘い菓子を買ったりできた。
Hさんの家にはAさんと同級生の男の子がいた。それでよく自宅に招いてくれて食べさせてもらった。
HさんはA少年の給料を毎月すこし日本円にして現金で保管してくれていた。
水没事故のあとHさんが小声で「ここは危ない。よそに行け」と案じてくれた。独身寮の周囲は360センチの塀で囲まれており、出入口には見張りがおり脱走を警戒していた。家族持ちは炭鉱住宅に入り当時の西岐波小学校の在籍名簿にはたくさん朝鮮姓がある。
「今夜逃げます」とHさんに告げたら貯金を渡してくれ餞別もくれた。
下関まで逃げて、宇部に行くという同胞がいたので長生炭鉱のHさんに渡してくれと鉛筆一箱をことづけた。
Aさんは当時を回想して涙を流された。Aさんは心臓に持病があり「宇部に行こう」と誘う私の申し出を断った。
それならHさんを連れて宮田町のAさんを訪ねようと磯野恭子さんと連携した。
テレビ局の車にHのじいちゃんを乗せて宮田町に行った。ふたりは抱き合って無事の再会を喜んだ。
Aさんは小倉で空襲に遭い、長崎軍艦島に働き行ったが過酷で逃げた。宮崎の旭化成で防空壕を掘る仕事についたときも空襲に遭った。とても運の強い方だった。
その涙の再会は特別番組として放映された。
その後、磯野恭子さんは韓国に渡り遺族と面談されたりしてドキュメンタリー映画「海鳴りのうた」を制作され、その年の国内ドキュメンタリー映画最高賞をとられた。
あの「殉難の碑」では慰霊にならない。つまり謝罪の言葉を刻んだ「殉職の碑」にせよという声が一部にある。強制連行は昭和19年から終戦まで、国内の労働力不足を補うためにおこなわれたらしい。長生炭鉱水非常(昭和17年)と強制連行は無関係だと思っている。

わたしがHさんのお宅に通うとき、毎月3日(月命日)碑に花が供えられることを知った。Hのじいちゃんが、あの花は水没事故の直前に坑内に入るEさんがいたので「危ないからやめちょけ」ととめたら「わたしは責任上入らなければならない」と入った、当時30歳の保安係Eさんの奥さんが事故以来欠かさず献花を続けていると教えてもらった。
Hのじいちゃん葬儀は数人の参列だった。ばあちゃんは病院を転々とした。最後は認知症になり、わたしが財布を盗ったなどと騒ぎになり足が遠のいた。
農園に一本のピッケルがある。じいちゃんの葬儀の日に連絡がつき戻ったひとり息子が、お世話になりましたとわたしに頭を下げたとき、形見にあのピッケルをくださいといただいた。
じいちゃんから炭鉱時代の写真を見せてもらったとき、鉱業主と二人で鉱口で撮った一枚があった。鉱業主のRさんはピッケルを握っていた。坑内で石炭の層をみるときにピッケルを使った。写真のピッケルをその後じいちゃんは鉱業主からいただき、じいちゃんの宝物。上がり口にかけていた。よくみると「H氏」と主が刻んだ文字がある。
ピッケルがわたしの長生炭鉱。

ピッケルは2016年春に、床波 西光寺の佐々木住職を訪ね行き場を相談した。わたしが生きておるうちは由緒がわかるが。
住職のお骨折りで、常盤公園石炭記念館におさめられた。