日別アーカイブ: 2013年9月7日

歴史の勉強

県セミナーパーク講堂で開催「長州藩と会津藩」講師 山口県地方史学会会長 小山良昌氏。第二回を糸賀社長と聴講した。
戊辰戦争以後、現在まで語り継がれる会津藩の薩長への怨み。そのすべてが会津藩士の子孫が語り継いだり、小説とした史実にもとづかないものである。この柱で全二回の講演をされた。
ふたつほど代表的な怨念話を資料から紹介。
会津曰く
敗戦後、長州藩により極寒不毛の地 斗南に追いやられ飢餓生活を強いられた。
史実
明治2年9月、新政府は会津松平家再興を内示し、陸奥国3郡(斗南)か、会津藩旧領地の猪苗代地の二者択一を提示。会津藩は重臣協議の上、みずから斗南の地を選んだ(旧領地の猪苗代では藩に対する農民の反感あり)

会津曰く
会津藩は賊軍だから、長州藩は遺体の埋葬を許さず長期間放置させられた。
史実
「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」の内容に「彼我の戦死者(官軍と会津双方の戦死者)に対する一切の処置を禁止する」とあり、会津藩の死者のみの埋葬を禁じたものではない。死体から金品剥ぎ取りを防止する一時的な処置はあった。戦後の会津民政を任され、遺体埋葬も担当した会津民政局には、長州藩関係者は皆無だった。

付け加えると
2004年発行。郡山市勢要覧 市制施行80周年合併記念号の記述に以下の記述がある

郡山商人たちは、官軍を「官軍さま」。会津兵を「会賊」と呼び捨てた。8月7日に会津兵の大襲撃で、街の中心1700棟が焼け落ちた。戦火が北上するにしたがい会津兵の放火や略奪による大きな被害を受けた。

歴史はこれほどわかりにくい。そして今動いているシリア情勢も、科学兵器なのか地下資源獲得でアメリカが動いているのか大義は見えない。