母の人生を確かめている

大正8年。母は出雲の斐川で7人兄弟の長女でうまれた。日本中がそうであったように貧困だった。松江に奉公に出され、なぜ支那の青島にいたのかは語らない。わたしの父親は獣医師として大陸に出征したことは聞いたが、結婚はしないままわたしがうまれている。
父がうまれた明治。母がうまれた大正。そして戦後の貧乏生活は知り合いのすくない宇部で母はわたしをうんでくれた。強い母だった。
日露の戦いから大東亜の戦いをわたしなりに解釈をすすめているが、わたしをその方向に動かす源は、激動の時代に生きた、わたしの知らない父親と、過去を語らない母の苦労が具体的にわかることもある。
高崎山でうまれた猿が「絆」と命名された。応募のなかに「八百長」があったと知り苦笑い。わたしを命名したの誰かと尋ねたら母は聞こえないふりをした。それが答え。