神戸の17日

太郎さん顔の化膿が深刻で片方の目が見えにくい。その世話をしながら冷え込んだ5時46分。神戸の方向に手をあわせた。
4ヶ月滞在した、兵庫区浜山小学生避難所。「お手伝いしなければ」と、ご縁のままに行ったが、千数百名が教室や廊下で寒さのなかで食べ物と灯り、寝る場所もなく混乱の中に私も入った。
私は音楽室の利用を許されたが、食べ物と水などみなさんと同様に苦労した。
明確な指揮系統はなく、唯一「運営委員会」という、日頃はうとんじられているような10名近い若者が避難所を腕力で取り仕切った。
しばらくして、この地域の暴力団組長が、京都の病院に入院して受けていた治療をやめて手下を連れて避難所生活をはじめた。
この方の存在はおおきく避難所の治安はよくなった。紙オムツやミルクなど緊急に要るときは親分に頼むとすぐに調達できた。4月、避難所で亡くなられ私と牧君は組葬に参列した。
三田市の香山君にもたくさんお世話になった。
当時は腹が立つようなことが毎日たくさんあったが、19年も経つと忘れた。

忘れていないことは、様々な困難な場面で、困難に負けない勇気を出したふつうの人たちの言動。手のつけられないほど汚れたトイレに向き合った人たち。腐って食べることはできないオニギリを配ったおばちゃん。食べられないから罵声を浴びせた男たちに「つくってくれた人の心を受けとれんのか」と泣きながら叫んだ。その夜、食べるものはなかった。

きょう周南市を走っていたら、当時の仲間から電話「来年のきょうは神戸で必ず会いましょう」「元気に再会しましょう」と答えた。一年さきの元気がよくわからない年齢になった。