生テレビで寝不足

深夜の「朝まで生テレビ」は集団的自衛権の議論が白熱して、朝まで見てしまった。

愛犬の「はなちゃん」は18歳で一昨年の1月に亡くなった。しばらくしての出来事。
日曜日の夕方、わたしは風呂あがりのビールを楽しみながら新聞に目をとおしていた。家内は台所にたっていた。犬の遺影に花が一輪。
突然、愛犬の大きな声が部屋に響いた。わたしも家内も思わず「はなちゃん!」と叫んで狭い部屋を見回した。こんな不思議なことが起きるのかと思った。
若いときから金光教に縁があった(いまは縁遠くなった。長女は太秦教会でご用している)信仰の世界では不思議な体験が語りつがれている。
弾がそれた。突然雨がやんだ。夢で知らせがあった。ムシの知らせなどなど。
今年の冬。夜中にまた「はなちゃん」が吠えた。連続したから発生源を知った。古くなった石油ファンヒーターがそうだった。
なにか特別のことがあると、それを自分に都合のよい事柄に置き換えて満足して納得する。だから犬の声も真実味をおびてさまざま、わたしのなかで物語がつくられる。
敵弾で死んだ戦友のお守りと、あたらなかった自分のお守りのご利益を比較はできない。
世界は、歴史はただ営みを続けているだけで、自分中心に神仏を語ると本質が見えてこない。
ルバング島で約30年生き抜いた小野田寛夫さんが「神仏は願うものではなく、敬いお礼を申し上げるもの。日々の困難を神頼みにすれば、自らの力を出しきれない」と語られた。
水曜日の神参りはお礼だけ。少しのお願いは身近な人の立ち行き。
家内は明日から二泊で太秦教会春の大祭裏方のご用にむかう。

午後から草刈り。今夜はぐっすり。