南京大虐殺

火曜日のウォーキングは山道を30分以上歩く。何年もこの道を歩いているが、風景を17文字にまとめるようになり景色が一変した。季節感を見つけるアンテナが高感度になりつつある。茂みのアケビやカラスウリも今朝は見えた。それが17文字のご褒美。

秋を詠む 十七文字やハイビジョン

福島県の小野賢二という方が、南京入城をした「会津若松歩兵第65聯隊」の兵士200名に27年前面談して証言を聞いて、31冊の陣中日記を寄贈してもらっている。それがテレビ番組で報道された。
その日記を検証(裏づけ)もしている。日本のどこの軍港から、なんという船名の船で行ったか。すべて符号。上海の邦人保護の目的で日本陸軍は上海を制圧。その後、松井石根陸軍大将の指揮で、当時の首都南京攻略作戦となる。いわゆる暴走。
南京までの行軍は、食料など補給はなく現地調達(徴用)。住民の食料や酒を盗る。
南京を囲む作戦で落城させたから城内の支那兵士も住民も投降。会津若松の聯隊だけでも1万人以上の捕虜を受け持った。国際法で捕虜の待遇は保証されなければならないが、それだけもの人数を養う食料も食器もなかった。
揚子江を正面にした場所に機関銃座をぐるり作り、夕方5000人ぐらいを2度にわけて撃ち殺した。人数が多いから弾が当たらない子供までも銃剣で刺した。死体は河に流した。南京のことは他言するなと上官から命令された。
ほぼ同様の内容が全部の日記に綴られている。
指揮した松井石根陸軍大将は、東京裁判で絞首刑になった。

中国が宣伝の30万人は眉唾にしても、数ではなく残忍性では日本は謝罪しなければならないと感じた。
これまで日本良しとする論調ばかりを見聞きしていたわたしにはショッキングなテレビ番組だった。
終戦直前、南京に関する日本軍の資料は焼却されているらしい。

万歩計12000歩