肩の荷ひとつおり

昨夜は体調が悪く寝酒が効かない。ウィスキーを枕元において天井みながら長い夜になった。
持つ手があめ色に輝き、先がとがったピッケルがある。値打ちはわからないが「わざ物」の風格。
20数年前、長生炭鉱(S17年に海底炭鉱水没。犠牲者184名のうち130名ちかくが朝鮮人)7を調べはじめた。
海辺に昔の炭住が崩れかけてひと棟あり、その1軒にHさん老夫婦がお住まいだった。
電気工だった爺ちゃんは、水が漏れはじめた午前5時に、採掘先端部に緊急用電話を設置して、坑外に出た直後に出水事故が起きた。
つまり、2月3日当日を語れる人物だった。爺ちゃんとわたしの間柄を知ったKRYテレビ磯野恭子取締役が、カメラを持ち込み短い報道にした。
そのテレビ番組を、福岡県宮田町で偶然目にした秋さん(15歳で朝鮮から働きに来た)わたしをわが子のように慈しんでくれたHさん。すぐに局にHさんの居場所を尋ねたら「足立さんに聞いてくれ」その電話を受けて秋さんに会いに行った。事故後に長生炭鉱の便槽をもぐり逃げた。その時Hさんにだけ計画を打ち明けた「持って行け。捕まるな」とHさんお宅の現金を全部もらった(炭鉱は炭鉱でしか通用しない紙切れで支払いされていた)小倉の同胞を頼り行って大空襲。逃げて長崎の軍艦島。ここも逃げて延岡旭化成で防空壕の土方。日本人の奥さまを迎えたが貧困。心臓が悪い「爺ちゃんを連れて来る」と約束した。
カメラ動向でHさんと秋さんが抱き合う再会になった。
長生炭鉱をテーマに「海の鳴りのうた」1時間のドキュメンタリー番組ができた。その年のドキュメンタリー最優秀賞を受賞した。

爺ちゃん夫妻との関係は続いた。家内が夕食を多めにつくり届けるような。
爺ちゃんが亡くなった。婆ちゃんに聞いて長男がわかり連絡した。形ばかりのご葬儀を集会所で簡素に済ませた。長男が「世話になったから欲しいものがあればどうぞ」欲しい物があるわけがない。けれども爺ちゃんの宝物は、時の鉱業主から頂戴したピッケル。それを握って帰った。

このピッケルは、わたしには大きな意味があるが、わたしがなくなればゴミになる。
昨夜、考えたあげくに犠牲者の位牌を弔う寺に受けってもらえないかの結論。

二日酔いもなく、元気に起きて床波の西光寺に8時。ご住職にピッケルの事情を話してお預かりいただいた。
炭鉱事故がイデオロギー争いの場になり、本来の慰霊ができていない私見も申し上げた。ピッケルはどう扱われるかはわからないが、わたしの胸のなかは晴れた。

ぼつぼつ身辺整理の歳になった。

午後から藤野先生「数楽の会」
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