未完成の自分史紹介

萩市は連休中「萩焼き祭」常茂恵旅館、朝7時の厨房は従業員さん慌ただしくされていた。
大谷山荘8時の広い厨房も緊張感があった。
美祢市の黄正吉さんは9時。奥さまが紅茶を出してくださり、しばらく歓談。正吉さんは話せば話すほど多方面に造詣が深いことに驚くことがある。日韓の歴史・音楽・旅に食べ物・陶芸に園芸・絵画などなど相手にあわせるチャンネルが多い。加えて記憶力。
はじめて美祢でお会いしたとき、わたしが片親だと話したらしい。それが今朝のメインテーマになった。
片親は不幸か?両親が揃っても親で苦労する人もある。逆説的に幸福論を展開されるあたりが正吉さん節になる。面白い。帰りぎわ奥さまが「豆を煮ました」と土産にしてくださった。
午後から昼寝。なんと2時間も寝た。起きて先ほどまで自分史の入力。まだ「阪神淡路大震災」は未完成ではあるが、それを日記にアップしておく。

1月17日発災後の19日。金光教本部職員が現地入りするので、わたしは動向した。国道2号線は岡山県内から大渋滞。姫路教会で夕方になり、そこから東に向かう国道に高速道路は寸断されていた。
神戸に入るルートづくりにわたしは姫路教会を出た。三田市の香山益夫さんと連絡を取り合い三木市から三田市に入り、三田市到着は早朝だった。三田教会婦人部が総出でオニギリの炊き出しを大量につくり託された。消防団の制服を着た香山君の車を先に走らせ(消防団車両は優先)新六甲トンネルを越えた。黒煙の神戸市が眼下にひろがる。
電柱もビルも傾き、垂直にたつ構造物が少ない三ノ宮駅近くの金光教常盤木教会に着いた。教会は半壊状態でトイレは使用できなかった。大阪方面に向かって歩く人たちにオニギリを手渡した。
救急車ではなく自家用に「透析患者搬送中」と書いた段ボールをはり警笛を鳴らして街を出る光景。ガス漏れらしい場所。被災地のど真ん中に来た。
姫路から神戸までのルートを報告していったん宇部に戻った。
神戸市兵庫区浜山の金光教岬教会が全壊し、教会長の福原先生家族が地域の浜山小学校避難所で地域のお世話をされ、現場から手伝える人材派遣を金光教本部に要請された。その一報を受けて神戸行き準備をはじめた。オンボロ1トントラックで走りって浜山小学校避難所に赴いた。
到着した当時、千人ちかい地域の被災者が教室や体育館で身を寄せあっていた。運営委員と呼ばれる若者7〜8人がこの避難所を運営していた。
発災直後に学校関係者と自治会組織が運営にあたったが、満足に届かない水や食料品を配給する困難。夜中は半壊住宅を狙う窃盗団対策。トイレをどうするのかなどにお手上げとなり、日ごろは地域で厄介者扱いされた若葉が立ち上がり、緊急を要したトイレが使えるようにした。水はトイレを使う者がバケツでプールの水を持ち込み、紙は流さず袋に入れてゴミにするルールをつくった。
ボランティアという言葉はこの震災以後から使われるようになったのではないかと思う。
音楽教室を与えられ、赤十字から配られた毛布を二枚、運営委員から与えられた。
着いた夜。自衛隊携行缶詰(赤飯)をあたためる作業を手伝った。集められたカセットコンロを教室の床に並べ、湯が沸かせるあらゆる容器に飲料水をいれて缶詰をあたたかくして避難者に夜中まで配った。
深夜、音楽教室に女性ふたりが懐中電灯に導かれて来た。半壊住宅に居た母と娘が暴漢に襲われそうになり逃げてきたと聞いた。ここは秩序が機能しない場所だと感じた。
4月末、復興祭で避難所が閉鎖されるまで、様々なドラマを体験した。
避難所にペットを連れてくることは禁止されていた。小動物は三田市に預ける施設があった。
自宅生活が困難になったおばあさんが子犬を抱いて来た。犬は預けて来なさいとわたしは言った「家族ですから」と何度も頼まれたが犬は認めなかった。おばあさんは立ち去った。
震災の年にわが家に子犬の「はなちゃん」が仲間入りした「家族」の言葉の重さがやっとわかり、おばあさんは音楽教室に入れてあげればよかったと悔いた。
各地から支援物資が届くようになった。オニギリもたくさん届いた。塩で握ってあれば寒いから日持ちしただろうが、善意で昆布などが入っていたりすると腐っているものもあった。
その夜、配るオニギリがたくさん腐っていた。これしかないが配るには問題があり手をとめていた。花屋のKさん(その日から肝っ玉母さんと呼ばれる)が「ええから配り!」と指示を出した。
配りおえてしばらくして予想した光景に展開した「食えんじゃないか!」と男たちが来た。
花屋のおばさんが目を真っ赤にして言った「食えんけれど、握ってくれた人の気持ちは受けとってくれ」と。