勝子さんとの思い出

中村勝子さんと昨夜お電話で会話を交わし「忘れられることがよいのよ」と示唆をいただいた。
わたしの人生、時々のエピソードを時系列でまとめて「自分史」をつくっている。石の墓も、紙の墓もつくらんでよか。と言われたように思った。中村勝子さんも、スペシャルのなかで、現役の人からは過去の人になりつつあるのかもわからない。けれども、それこそが自然だと言われたのかもわからない。
勝子さん38歳のとき、アメリカのケネディ家からはじまった知的にハンディをもつ子供のスポーツ。スペシャルオリンピックスを勝子さんは知った。
体操床運動を経験していた勝子さんは、ダウン症の「ともちゃん」と平均台にチャレンジした。30センチの高さに恐怖があるともちゃんと寝食をともにするぐらい練習を重ねて、渡米費用を主人を拝み倒してねん出してふたりで世界大会。
つたない演技が銀メダル。このスポーツの価値観は、その子が持っている力をどれだけ輝かせるかが判定基準。メダルを持って帰国してもスペシャルオリンピックスは誰も知らない。それならば熊本県知事に報告すればよいとアポなしで知事に面会。そこからスペシャルオリンピックスがはじまった。
その冊子「ともちゃんの銀メダル」の(まえがき)は細川佳代子さん。書き出しは。
熊本の男性は「肥後モッコス」女性は「肥後の猛婦」と呼ばれています。
わたしはすてきな猛婦に感化された。勝子さん経営の花屋「欧風花」を訪ねたとき「いらっしゃいませ」と最高の笑顔で迎えることが仕事の知的にハンディ女の子。
自宅を訪ねたとき、勝子さん留守で、ご主人さまが「ただいま主は留守をしています」と真顔で言われた思い出。
アメリカ大会に選手団を率いて行くとき「この本を英語版にして世界に配りたい」と言われ、英訳は熊本大学の生徒が担当、印刷・製本はわたしが担当した。運賃はないので、参加の選手団がわけて個人の荷物にして参加した。
フラワーデザインで、なにかおおきな賞をいただかれ、熊本市内の百貨店レストランでお祝いが催された。当日は台風が襲来、JRも高速道路も不通のなか、国道3号線を走り百貨店に着いた。裏口から会場に入ったらお祝いの会は決行中「あんた、どげんしてきたんと」と迎えられた。
正志が長崎の島原市で無認可障害者施設で働き、ジャガイモの収穫をするときだった。掃除のメンバー。広島から井辻さん。山口から河村久仁夫さんに松村御大。トンカツ浜勝の当時社長の元岡さんなど、掃除はするが酒も飲む仲間が島原に集まり大宴会。その席にも勝子さん同席された。わたしは酔って記憶がないが、よくあの騒ぎに同席された。
何軒かハシゴ酒をした。その店でヒソヒソ密談?する男たちがおり、わたしは酔った勢いでヒソヒソの仲間に加わった。島原で葬儀社をされる人が鍵山先生の掃除を知り、諫早市のイエローハットに行き掃除道具を揃えた。観光客から苦情がある、島原駅横の便所を明朝やり方は知らないが素手でやる。
こちらは酔っぱらいとはいえ、鍵山先生の一乃弟子を自負する酔っぱらい。明朝の掃除は「一緒にやろうぞ!」と乾杯がはじまった。翌朝、革靴でスーツズボンとカッターシャツのをまくり、雨のなか二日酔いで最高に汚れたくみ取り便器に向き合った。勝子さんは帰っていた。