避難所思い出


港湾労働をされるかたが多い浜山小学校避難所。当初は千数百名もの避難で騒然としていた。教室、体育館に廊下までぎっしりだった。学校関係者や自治会役員が運営を試みたがまとまらない。結局地域でうとんじられるような若者がトイレを掃除して運営委員としてまとめた。腕力もあるし。
1ヶ月ほど経ちこの街出身のヤクザの親分が、末期がん治療をやめて京都の病院から来た。黒塗りの車が列をつらねて運動場に入り運営委員とにらみ合いになった。結局親分は子分を数名だけ連れて避難所に仲間入りした。
欲しい品は親分に言うと数時間あとには子分が持ってくる。そのかわり届いた物資で売れそうなものは消えた。近くの避難所の喧嘩仲裁までやり頼もしい関係になった。私たちが「会長」と呼んでいたのでPTAのそれと勘違いの人もいた。4月、親分は早朝吐血して亡くなった。奥さんにお参りしてくださいと言われ、牧君と組葬に参列し親族席に座った。牧君とはこの親分にまつわる懐かしいたくさんの思い出がある。
混沌とした避難所が、半月もすぎるとたくさんのドラマのなかから秩序がうまれた。