わたしの神戸


5時46分の黙祷は採卵中の鶏舎だった「13年経ちましたね」と7時に神戸の福原さんに電話をした。牧君が来ていると聞いた。浜山小学校避難所に福原さんの案内で行ったとき、わたしはパニックになっていた。家が倒壊した1000人の人が目をひきつらせてうごめいていた「なにをしに神戸に来たのか」と首実験のように問い掛けられた。音楽室をあてがわれてリュックをおろし最初にしたことは、自衛隊から届いた赤飯の携行缶詰を1000個ぐらい、たくさんのミニコンロを並べて鍋でお湯を沸かして温める作業だった。余震の地響きがドンドンと地面を揺らした。産気づいた女性も、喧嘩もあり、夜中は倒壊した家に侵入する泥棒の夜警もあった。4月末までそれは凝縮した人間模様の現場に立ち会った。騒然とした時期から秩序がうまれ、ここで生きるためには自分はなにをするべきかと思う人が増え、届いた野菜で味噌汁をつくるご婦人たちの場面もできた。全部の生活を失った人たちの心の復興を約3ヶ月一緒に体験させていただいた。いろいろ課題があっても、食べて眠れる生活がどれだけ幸せかということがよくわかった。わたしの神戸だった。