歎異抄お もしろく

昨夜の録画「100分de名著 歎異抄(1)」を2時に再生した。理解したいから朝までに2度みた。
すると番組内容とかけはなれた気付きが生まれた。
わたしは若いころは「組織論や運動論」が好きで、組織をつくり、うまく人を操れば目的が達成できると思っていた。そのわたしが組織や運動では目的は達成できない論者に今はなっている。
尊敬している金光教教師は。例えば元旦の祭りはされない。その理由を尋ねた。
元旦の何時から祭りをする言えば、一番楽なのは教師じゃ。その時間だけ装束着けておきゃあええからの。
この教会は、元旦は家族で都合のよい時間に揃うて参るように教えられている。家族ごとに昨年の御礼、新しい年の願いをしておられる。家庭ごとに御礼も御願いもちがう。それに寄り添うのが宗教だと教えてもらった。そこには組織も運動もない場当たりのような印象を受けた。
法然も親鸞も、人が助かりさえすればよい。その仏の願いを具現化されたような感想をいだいた。

制服でマニュアルの笑顔と言葉で接客してもお客の満足度はあがらない。客に寄り添えば満足度はあがる。

火曜日のウォーキングは「十文字交差点」近くの山登り。とはいっても商業団地だから舗装はされている。
頂上には2つの企業が広大な敷地で営みをしている。
ひとつは、廃車を広域から集めて、部品再生と資源再生工場。役目を終えた廃車から燃料を抜き取り、使えるタイヤ・バンパーやガラスなど丁寧に外し、エンジンやボディーもアルミと鉄などにわけられる。
一方の会社は、ダイハツの軽自動車。新車の大規模基地。各地から北九州にフェリーで運ばれた様々な車種が陸送されている。
生まれた子供と同じように、たくさんの未来を持つ新車。役目を終えた廃車。どちらも「ありがたい」光景。

万歩計13000歩