戦争体験を聴き


山口市内Sさん宅に午後2時ごろ配達した。ご高齢(89)歳のご主人の声が聴き取り難い。理由は一ヶ月前に奥さまが亡くなられ、話し相手がいないので声が出にくくなったと。それならばと玄関に腰をおとして30分ちかく話を聴かせていただいた。
僕は19年、広島で召集され輸送船団で朝鮮に渡り、もう唐津の沖で船団が戦闘機からだいぶ撃沈された。朝鮮で編成された41連隊はまた輸送船に乗り、夏服を支給されたから行き先は南方だと感じた。ビルマ近くの沿岸で6400名乗った船が撃沈され、僕は20時間木切れにつかまって戦友の遺体とともに流された。半分は水死したと思う。それから密林を野砲を分解して背負って行軍するという過酷な毎日。最後のころは弾薬を谷底に捨て装備も捨てた。一度だけ友軍の戦車隊が来たけれどインド兵の攻撃で全滅した。餓死寸前で終戦をむかえた。
この話をしたら泣けてしまう。家内には克明に当時のことを話した。何度か現地に慰霊に日本酒をさげていたったけれど、それも叶わない年齢になり、いまでは年に一度、門司のパコダに連隊が眠っているので行く。わたしの戦争を知っている家内が亡くなり、もう伝える人もいない。戦争は絶対にしてはならない。だから国防は考えておかねばならない日本です。涙をいっぱいためて話してくださった。ちかいうち録音機を持って克明に聴かせていただきたいと思った。Sさんはインパール作戦(白骨街道)の生存者ではないかと感じた。