母は快方にむかい


防府市の配達をおえて、磯村千代子先生に一方的に電話した「あと1時間ぐらいで行きますから」と。
先生は自宅まえでお気に入りの帽子でわたしを待っておられた「ラメールに行こう」と。周防灘がみわたせる喫茶店のテラスで1時間会話がはずんだ。
先生は終戦のとき20歳で東岐波小学校教員だった。ニュージーランドの兵隊が山陽荘に進駐して、先生がオルガンを弾いて生徒がうたう慰問を何度もした。チョコレートが嬉しかった。戦死の報が届き、それならばと主人の弟と再婚した。しかし兄は復員しその日から家庭の崩壊がはじまった。兄が弟を電柱に針金でくくり乱暴する光景を何度もみた。戦争はなにもかも不幸にするとしみじみ話された。
その足で母を見舞った。介添えが必要ではあるが車椅子でトイレに行くようになりオムツはとれた。顔色もよく安心して病院をあとにした。
帰り道でいったん停車で停まったが、停まりかたが悪いとパトカーに停められ反則キップをもらった「もっとちゃんと停まってください」と若い警察官。おまえらは飲酒の警官を本気で捕まえたらええんじゃ。と言葉には出さなかった。