日別アーカイブ: 2013年10月12日

応仁の乱おもしろい

土曜日のはじめは、萩の宿「ともえ」に定刻の7時過ぎに着いた。
大谷山荘から美祢。うどんの「よしの」に用があり立ち寄った。開店準備の休憩タイムで、主は最近没頭している硬骨文字を紙きれに書いては腕組みして怪しい雰囲気。奥さまはおおきなアケビをスプーンで食べていた「はい」とわたしの両手にいっぱいになるおおきなアケビをふたついただいた。このアケビはすぐ近くの加奈ちゃんに届けた。次男の慶ちゃんが喜んだ。
黄正吉さんの愛犬(マメ柴)コユキが緊急手術を受け1週間の入院をおえてゲージでまるくなっていた。韓国の青色唐辛子(生)を奥さまからいただいた。
山口市内の納品でおわり魚屋に行った。きょうは青森の真鯖がいいと言われ一匹を二枚におろしてもらった。
真鯖は家内が煮付け・焼き・焼いて酢でしめてくれた。煮付けは腹の皮が黄金色に輝いて今夜の酒がすすみそう。唐辛子は目にしみて涙で味噌に漬けてくれた。味噌が辛くなり肉や魚がうまくなる。
夜明けまえ、録画のBS歴史館「応仁の乱」を少し見た「人世むなしい応仁の乱1467年」。少し見たわたしの感想は、むなしくではなく面白い。
京都が長年の戦乱になり、高級官僚の公家が日本全国に京都の文化を持って逃げた。それまで地方では板張りの生活が京都の畳文化になり、1日は2食だった食生活が3食になり、地方になかった「書き言葉」も伝わった。土佐には京都言葉までいまに残り「しただろう」を「しつろう」と言うらしい。
島根県日原の知り合いは「そこにある」を「そこにあるろう」と言う。山口の「姉さま」や「兄さま」もそうではないのかと空想は広がった。
歴史は、その当時に生きる人には過酷でも、後生になれば「あのことがあったればこそ」になる。
人の人生も、辛く過酷であっても、子や孫からは「あの苦労のおかげで」と感謝がある。まさに、わたしの母がそうである。