日別アーカイブ: 2017年2月7日

25年前の今日

朝6時。気温4度。曇り。最高気温7度。鶏舎の中での仕事中、汗をかく。

昨日、予定していた飼料の入荷が運送会社の都合で一日遅れた。Iさんの作業に大変負担がかかる一日になった。

給餌をしたくても貯蓄タンクに餌がなく、鶏舎内の餌箱はグングン空になる。11時ころから650キロの飼料を彼女が運び、昼休みをまたいで続きの作業。

ちょっとした手違いで通常より多い力仕事をこなした彼女のノートに「おつかれさま。ありがとう」と書き添えて市内の配達へ出た。

昨日の夕方、運転中に島原でお世話になったスガさんから短いメールが着信。

「25年前の1992年2月7日。あなたと初めて会いました。お互いおっさんになりました。体に気をつけながらがんばりましょう」

25年前の2月。私は高校3年。卒業前だが推薦入試で大学受験したが失敗し、卒業後の進路も決まっていなかった。

雲仙普賢岳の噴火で島原とご縁ができ、無認可の作業所、福祉工場で体験実習をすることになり、その工場長がスガさん。

何か大きな夢があったわけでない高校卒業前の私を現場で指導してくださった。

その初めての出会いが25年前の2月7日。普賢岳の噴火から、さほど時間が経っていなかったので島原の街並みは火山灰でグレーだった。

どんな自分になりたいか不安や憤りを感じていた18歳の自分。

障害がある人と共に汗を流す工場に初めて入った時、目に飛び込んだのは

「生きる喜びを、生きぬく力を」

真っ白い大きな用紙にクセのある力強い筆で書かれた職場のモットー。かなり心に響いた。

その後、2年ほど親のスネカジリで広島で学生生活を送り、スガさんにお願いして、私も島原育成会の仲間に加えてもらった。

収入や待遇で世間と比べると、・・というか比べることすらなかった、あの頃。

後に聞いた話だが、25年前の今日、スガさん第一子「太陽くん」が死産し、育成会の大きな願いであった「松光学園」の認可がおりた日でもある。

ありがたい節目のメールに、どんなに忙しくても「心は豊か」に生きていきたいと思いなおした。

あだちまさし。