母を祝っておもったこと


昨夜、農園に母を招いて91歳の祝いをした。
わたしを認知した父親のことはこれまでに語らず、奉公に出た10代からわたしがうまれた33歳までのことも語ったことがない。今年にはいり自宅でつい「むかし青島(チンタオ)に2年いたがトラホームが悪くなり帰国」と口をすべらせてらしい。むかし母が中国語を流ちょうに話す場面をみたことがある。
昨夜は宇部空襲の話題になった。港町近辺に防空壕つきの家があったらしい。焼夷弾で火災になり「主人の家(阿知須)の方向に必死で逃げた・・・」と。当時26~27歳だった母である。防空壕に入れたお金も食器も灰になっていたらしい。
たいがいの人ならば90歳もすぎたら、60年前のことは愚痴や自慢で言うだろうが、言わないだけに母の女としての誇りを感じている。