日別アーカイブ: 2014年8月15日

お盆の配達おわり

3日まえ、母の点滴が終わった。
7月末にケア施設では世話ができない状況になり、近くの病院に移った。一番の問題は腎不全でおシッコがでないこと。医師はそれまでの薬(朝夕あわせて20錠)をやめ、排尿を促す点滴だけにした。部屋はナースステーションのまえ、ドアは解放されていた。
会話ができるうちに会っておきたいと、京都から長女も見舞いにかけつけた。わたしは散髪に行った。
すべての薬をやめて快方にむかい食欲が出た。おシッコも問題なく出る。それで点滴がはずされた。

今朝は2時すぎに目がさめた。終戦記念日のこの時期は戦争を外地や内地で体験した方の証言番組がたくさんある。毎年録画してDVDにおとしている。その枚数は50枚以上になる。

きのう朝「ペリリュー島」をみた。
この記録フィルムは、アメリカ軍が国内プロパガンダ用に、つまりアメリカ軍が勇ましく日本軍を掃討する映像を撮るため従軍カメラマンを多く上陸させた。日本兵に狙撃され倒れるアメリカ兵の映像。海に逃げる日本兵を撃ち殺す場面など、生の戦場が記録されていた。

ペリリュー島はフィリピンレイテ島の近くにあり、東洋一と言われる1000メートル滑走路があり、日本軍飛行機300機が駐屯していた。
アメリカ軍がフィリピンを奪還するには、この滑走路を利用し制空権をとりたい。アメリカ軍最強と言われた海兵隊が上陸した。日本軍は満州関東軍のなかでも歴戦の強者とうたわれる部隊15000人が守備に就いた「3日で陥落させる」と海兵隊指揮官は楽観的だった。それはサイパン島などで日本軍が行った「万歳突撃」を経験しており、海岸線でその突撃を待った。機銃掃射で突撃は簡単に壊滅できる。しかし日本軍は島に無数のトンネルを掘り持久戦に戦法をかえた。はじめて「持久戦」が行われ、以後硫黄島や沖縄でも徹底抗戦が戦術になった。
銃剣をつかう白兵戦になり、戦局を打開するためアメリカ軍は火炎放射機(100メートル先まで焼き尽くす)1000度の炎を出すナパーム弾がはじめて使用された。70日もの攻防の末に戦いは終わり、日本兵の生存者は30人。日米双方の放置された遺体は腐敗して地獄絵図の様相を呈した。
この記録フィルムがアメリカで発見された。
一方、マッカーサー率いるアメリカ軍はレイテ島に上陸し制圧した。
つまりペリリュー島は、ある時から飛行場の奪還は必要がなくなり、意味のない殺戮を続けたことになる。
要は、日本軍は降伏せずに徹底抗戦、持久戦に戦術をかえたため、以後の硫黄島や沖縄などはあらゆる火器や兵器を使い日本軍を徹底的に追いつめた。
日本を降伏させるには本土を含め、焦土にしないと降伏しないとアメリカ軍は判断したのではないかと思った。
アウシュビッツ収容所やカティンの森。
今朝は「トレブリンカ(ポーランド)」収容所で、約2ヶ月で90万人のユダヤ人が殺された検証が番組になった。
ナチスは大型ディーゼルエンジンを、ガス室に置きエンジンを始動する。排気ガスの一酸化炭素で10分で全員効率よく殺害した。

少しまえの時代、世界中が狂気になった。
世界中が戦いで争わない仕組みをつくらなければならないと感じた。
お盆の国道、周南を混雑のなか走りおえた。芋焼酎が胃袋に旨くしみる。