日別アーカイブ: 2015年2月11日

緋牡丹のお龍さん!

昨夜録画した「緋牡丹博徒」を3時に起きて途中まで見た。べっぴん藤純子が球磨弁(肥後・熊本弁よりなまりが強い人吉近辺)の歯切れがよく聞き惚れた。起きるまでにペットボトル1本お茶を飲んだのは、昨夜、Eテレのタブレット操作番組を再生しながら麦焼酎を飲み過ぎた。最後は酔って番組内容がわからなくなり、たぶん泥酔。
朝参り7時までにはスッキリ。本殿で天津祝詞を唱えていたら神勤中の宮司が内殿からわたしを発見「おはようございます」と声をかけたから返事をしなければならない。今度の市議会議員選挙を話題にされたから、今朝の朝参りは不調に終わった。
わたしが神参りから足が遠退いた理由は神職への不信感。それが20年以上かけて気持ちが変化してきた。
神職や僧侶といっても生身の人間だから、そこに完璧な人柄を求めているうちはわたしは成長しない。どんな神職がいても、その向こう側の神様に心を向けなければならない。

お掃除の会が出した書籍の内容で、鍵山先生がお風呂でどう石鹸を使われた。というくだりを目にした。わたしにはそれが大切なこととは思えない。
鍵山先生にしても生身の人間、ましてや人の親だから生活されるはしばしでは「おやっ?」と受け取れる言動があるかもわからない。けれども、わたしどもは鍵山先生が求め続けられている本質のところに着眼しなければならない。入浴までもをほめないで、心をみがく掃除を議論して深めることも要るかもわからない。
わたしが掃除をはじめた当時は、書籍「凡事徹底」を仲間で章ごとに読み、それぞれ異なる感想を述べあった。
休日のラジオを聞きながら配達。大友良英とピーター・バラカン(フランス?)の音楽番組は、日本の街並み画一的な風景を多少批判めいて論じた。即座にツイターでリスナーから「全国どこでも同じ商品が買えることはよいと思う。この番組は音楽番組ではないのか」と番組内容に違和感を感じた意見が寄せられ、それを大友さんは即座に読み上げ、音楽と社会はイコールであると持論を展開され面白かった。
けれども、わたしは消化不良「同じ商品が全国ど買える幸せ感」の部分。
ラジオを切って考えながら走って思ったことは、たとえばコンビニ。たしかにどの店も同じ配列で同じ商品が全国にあるから便利。けれどもそれが手間をかけた、時間をかけた商品ではなく大量生産の商品。
こだわりのコーヒー。ここしかない酒。手間隙かけたうどんや豆腐。本物は画一的ななかにはない。
配達が早く終わり宇部市内まで遠出して松原酒店と菊川画廊にご挨拶ができた。
今夜はほどほどの晩酌になる。かもわからない。