母のおおきさ

きのう母の一番したの妹(81歳)から封書が私に届いた。この妹が誕生したころ、母は松江市に奉公に出され一緒に過ごした時期はないように思う。
けれども、わたしの最大の疑問。母が中国語を知っていることがわかった。母の奉公さき(母曰く、金光教北堀教会の信者)奥さまが、毎朝人力車で参拝されるあとを走っておともをした。その奉公先が中国の青島(ちんとう・ちんたお)に行くことになり青島で2年(2年の話は家内が母から聞いた)居住したが目を患い帰国。つまり帰されたのだが、故郷に戻らず宇部。
そこを推理してみると、私の父親は山大農学部獣医学で学び獣医師だった。青島に駐屯する陸軍獣医師として軍馬を診ていた。開戦前になんらかの事情(命令)で父親は帰国。目を患ったと帰国の理由で一緒に帰国。
兵庫県のおばさんの回想によると、故郷で嫁に欲しいと縁談があった。手紙で親がわたしの母に知らせたら、結婚したい男がいる。と返事があった。
宇部から少し離れた父親の家は大きな地主で妻があった。しかし子宝には恵まれなかった。
当面、宇部の保健所(海の近く)付近に家をあたえられた。
宇部空襲のとき焼夷弾で家は焼けた(母回想の言葉)当時は28歳。炎のなかを主人を頼って逃げた。
そして33歳でわたしを出産。わたしの処遇で母は主人の家に招かれ、親戚からも歓迎された。それは兵庫県のおばさんが父親から聞いている。
けれども、わたしの誕生のあと正妻に男子が生まれた。
母は私を連れて身をひくかたちになった。けれども、昨夜のおばさんの電話では「進ちゃん、あんたの父親はとても立派な人じゃった。何度も、あんたなお母さんと出雲の家を訪れて家の経済やいろいろなことを解決された。さいさいおとしたばかりの牛肉のかたまりを送ってくれて、食料事情が悪いなか、わたしはあの肉で育ててもらった」
母が全財産をつかい自宅を買うとき、家内が「おばあちゃんが照美(長女)を連れて、常盤公園にご主人に会いに行かれた」と夕方話した。推測ではあるが自宅の購入資金を、最後の頼みで孫をつれて頼んだのだろうか。
きょう、ある方に父親の大学卒業名簿の確認をお願いした。
青島にご縁が深い知り合いがあるので、戦前、山口の連隊が居留していたか調べてもらう。
過去を一切語らずお国替えをする母のその日に、母の人生をありがたく受けとめたい。母が、わたしに父親を一切語らないのは、私がもしも父親の財産相続を思い立つ、恥ずかしい男にならないためかもわからない。
母のことがわかるにつれて、大正・昭和に平成を立派に生きた母の大きさが見えてきた。