心配するココロ

先週、農園のちかくに住むご婦人が亡くなられたとの噂を耳にした。

家族ぐるみで付き合いがあり、私も子供たちも年齢が近いので、高齢者が多い過疎地域においては最も若いグループに入る奥さまである。驚きを隠せず、動揺する心を落ち着かせながら一つひとつの事柄を聞くのが精一杯だったが、近親者のみで葬儀を済ませたということだけが妙に気にかかる。

顔見知りだった方が知らぬ間に亡くなっていたという話も少なくなく、高齢世帯が多くなってきた地域の「思いやり」で後になって知らせ受けることは今までにもあった。ただ今回は間柄からいって別である。つい先日も、長い立ち話で子供たちの近況をやりとりしたばかりだ。急いでお悔やみに掛け付けたいが、思春期の子供さんを抱えたご主人が閉門して喪に服される気持ちも痛いほど理解できた。

なにより職務上、聞き知った噂である。逸る気持ちを抑えて正式な知らせ待つことにしたが、寝ても覚めても奥さまの笑顔や、今までのあんな事こんな事が頭に浮ぶ。知らせが入るのを辛抱しきれずに、意を決めて弔問に伺おうとしたタイミングで、間違いだったことがわかった。不幸中の幸いの少し安堵と、数日間にわたって心配した心の余韻だけが胸の奥に残った。

結果的に取り越し苦労におわったが、もっと心に寄り添うような会話ができなかったかと後悔したり、何とか前向きな気持ちをつくって、出来るかぎりの励ましの言葉を考えたり、そして、残されたご家族のことを何度も自分と重ね合わせたりもした。ナントカなると思っていることが、一瞬でナントカならなくものだと、どうにもならない事までも深く考え込んだ。日頃、曇って見えにくくなっていた心の奥底を覗き込むような作業は、年末の「心の大そうじ」とでも言うべきか・・・。

日常の中で自分が頭で考えている一生懸命さや、家族への感謝の気持ちは、心の底にあるフタをはぐってみると、案外、まだまだ真剣さが足らない、独りよがりだったかもしれない、そう思えるキッカケをいただいた。この出来事をとおして感じた「心配するココロ」は今後も大切にしていきたい。

2019.12.24 あだちまさし