すし吉の助六

朝6時。気温23度。晴れ。最高気温が27度ぐらいまで上がったが、直接日差しを受けない場所での仕事は風もありやや快適。Fさんが休みなので、F井さん、Iさんに休日出勤をお願いして、11時まで採卵作業をした。

昨晩、島原でお世話になった「すし吉」のマスターHさんが他界されたとのメールを受け、深夜まであんなこと、こんなことを思い浮かべながら寂しい深酒をした。

明後日の葬儀には参列できない。初盆にも顔を出すことはできないと思うので、家内の友人で島原で生花業を営んでおられる「山口園芸さん」に電話。

この時期、どんな花がお勧めかなどは問わなかったが、私との間柄や、マスターのお人柄などをしっかり話し予算内で、私の気持ちが伝わる生花をお供えして下さるよう無理なお願いした。

普賢岳噴火で島原の方々と父の勧めで「ご縁」でき、島原市手をつなぐ育成会(障害者の親の会)が運営する小さな福祉工場に7年勤務した。縫製工場からカジュアルシャツを受け取り、アイロンプレスし、店頭に陳列してある姿にするまでが下請け作業が私たちの工場の主な仕事であった。設立した当初は半年間ぐらい同じ製品のアイロンがけ、たたみ作業だったが、消費者ニーズの多様化により、多品種少量生産の流れが加速、障害がある人と共に独立採算をモットーにしていた私たちの工場だったが加工収入を上げていくのは困難であった。

赤字補填の為に、いろいろな仕事をした。本来の「障害者が働く場」とイメージはかけ離れていたものの醤油、素麺の委託販売がギフト商品中心に徐々に売り上げを伸ばした。嫌々ながらの業務だったが私の担当。

担当した当時に醤油の配達をしていたのは「すし吉」さんとあと数件。プレス作業が終わっての内職仕事的配達だったので、お客さまに大変な甘えがあったと思う。

初めて配達に伺った際、領収証に「すし好」と誤記入し、カウンター満席のお客さま前で説教され、口数の少ない少々強面のマスターが強烈に苦手になった。

配達時間を昼の営業時間後に変え、キャッチボールさせていただくうちに少しずつ距離が縮まり、パソコンの手ほどきをして頂いたり、障害がある娘さんの話を聞かせて頂いたり。

当時、島原半島に養護学校高等部がなかったので、中学部を卒業後、娘さんの進路を案じ熱心に活動される姿には心を動かされることが多かった。

1999年、2000年と「ひまわりキャンプ」のお世話係りをさせていただいた時、ボランティアで参加してくれる高校生に提供する弁当の食べ残しが気になりマスターに相談。

夏の一番暑い時期、慣例で「のり弁当」を注文していたが、同じ予算で助六を作ってもらいたいとお願いした。今考えると無茶な話である。

苦笑いされ、となりの奥様からは「大赤字」と叱られたが快く引き受けて頂き、だだし配達は出来ないから、あなたが受け取りに来なさいという条件で。

プログラムの合間に車でお店へ受け取りに行った時の光景は今でも忘れることが出来ない。

店内はアルバイトさんも交え総動員。巻き寿司の海苔香り、いなり寿司の油揚げのツヤ、添えられる自家製のガリ。ハランで包み、その上から「すし吉」の包装紙。約80食分。

簡単な容器に詰められると想像していたので、思わずそこまでしなくてもと遠慮しながら切り出したところ

「バカ、すし吉がそんな恥ずかしいことができるか」

何も恩返しができず、長い闘病中、お見舞いに行くこともできなかった。

今はただただご冥福をお祈りするだけ。ありがとうございました。

あだちまさし