月別アーカイブ: 2014年1月

心で見えるもの

さきほど、2月の農園日記「ミニアルバム」の更新を済ませた。
ガラ携しか持っていないが、水元さんたちの支援で、わたしの携帯でHPのメンテナンスを約一年継続できている。
携帯電話機能は、ずいぶん駆使できている。きょうは1月中で台風発生2号情報が着信した。今年は台風が多いのかもわからない。

周南市から戻るとき散髪にたち寄った。隣の椅子にはご高齢のおじいさん。息子の嫁か実の娘か、わたし年代と思う女性が付き添い。半分寝ているおじいさんの機嫌をとっていた。シャンプーではたいへんそうに見受けた。
わたしは白髪頭にハサミを入れてもらいながら「おじいさん、だいじにしてもらい幸せだろう」と思った。若いときには見えない光景が、この年齢になり見えてくる。見えるとは目に映るものではなく、心に映るものだと感じた。

先日、今村さんにロト宝くじをわたしが買っている心境。人生が狂うぐらい高額をいつか当てます。と話した。今村さんは刺激を受けてロト6を千円はじめて買ったところ2千円になったとメールが届いた。
人生が狂うほどはいらないから、千円でもよいから換金してみたい。明日はミニロト千円購入の土曜日。

移動性高血圧

木曜日が無事におわった。
昨年末。12月中旬の水曜日に血圧検査(2ヶ月おき)でかなり高血圧だった。
約30年ちかく降圧剤は同じもの、同じ量で血圧は正常だった。測定器具は農園にあるが計りもしなかった。

なぜ急に上昇したかは不明。寒さと年齢ではないかと言われた。

とにかく30分で血圧を下げる薬を処方され、処置室で安静にして正常になったので帰宅ができた。その夜は家内が心配して泊まった。血圧を夜中に計ってみると異常に高い。3時に自宅に電話をして正志を農園に来させた。
木曜日。走る距離は240キロ。卵の数も配達軒数も多い。正志はそれを走ったことはない。住所と電話番号をキーワードにナビで走ることはできても夕方までには終わらないだろうと判断。
高いときに服用。その薬を飲んで、まあまあ正常になったことを確かめてスタートした。ラジオから。小倉で今朝タクシーの事故があり、運転手は高血圧の持病があり、運転中にくも膜下出血で意識を失った。と事故原因まで報じられドキドキした。
それから、昨日の水曜日まで4回も受診して薬を試された。服用してからこまめに血圧推移を記録した。
きのう処方された薬は、今朝の4時に服用。走りはじめた6時半にはよい数値だった。
腰の疲れでさきほどもどり、片付けをして測定したらまぁまぁの数値。
わたしにしては、焼酎一升が10日のスローペースで(禁酒は無理)節制している。
木曜日を無事におわりホッとした。

仕事の流儀

昨夜から視界をさえぎるほど濃い霧が出た。氷点下にはならないと予感。朝、予感は的中してプラス1度。
農園から少し走ると霧は晴れ一面の霜。今村さん宅に8時すぎに着いて寒暖計をみたら氷点下2度。

小野田市内の企業。食堂で働く女性が社員さんの注文をまとめてくれている。ノロウィルスが話題になった。
社員食堂で調理する女性かはノロウィルス感染になり、社員がたとえ数日でも働けないと、対外的会社の信用を失う。だから11月から刺身など生物は食べない。人混みにできるだけ行かない。検便をきちんとする。
調理器具の熱湯殺菌は徹底的にやる。
「仕事の流儀」を感じた。

農園日記の「ミニアルバム」2月は、ドッグトレーナーの資格があり、四国の歩き遍路を達成した桂子ちゃん。先日、にぎやかに泊まりに来たときの一枚。
3月は、井上酒店の主と思っていた。松原酒店と同じ頑固一徹の、山口方言で「へんくう」店の信用が最優先。ぱっと見が、ダイヤモンド・ユカイ似ているから「ダイヤモンド・フユカイ」で紹介したいと頼んだら「ダイエットしてから」と真剣に断られた。
松原酒店の看板は「時代おくれの酒屋」看板に偽りがあると井上さん。理由は「松原はスマートフォンを使いよる。看板に正直に黒電話をつかわんかい!」

紙面いろいろ

今朝の「産経新聞」。前回に引き続き「荒川健一の関門味風土記」が載った。今回のテーマは「鰯」。金子みすゞ「大漁」から書き出しがはじまり、鰯の解説は浪花のカウンター越しにお客さまに、手を動かしながらされている臨場感。結びは「いただきます」

NHK新会長が25日の就任会見で韓国批判をした。
産経新聞は翌日、26日朝刊一面で「解決済みを蒸し返して」と慰安婦問題言及の見出し。
いっぽう毎日朝刊は一面で「従軍慰安婦どこの国にもあった」の会見言葉尻の見出しではじまり「トップとしての資質が問われそうだ」とある。

NHK会長就任会見の内容として韓国問題を表明することは考えられない。あとの記者質問に答えて、個人的見解と前置きしての発言だと思う。うかつに個人的見解を述べることは脇が甘い。しかし、質問としてその言葉を引き出し、そこだけ発言を切り取り、政治的偏向などと毎日新聞の論調。

きょうの衆議院質疑でも民主党党首が声高らかにこの発言をとりあげる。
自虐的に自国の歴史をいつまで論じれば気がすむのかとあきれてしまう。

ラジオは「赤面したこと」をテーマに面白かった。肥満の妻が試着室からズボンを片足履いて「おっと!」と下着姿で転がって出てきたとき、夫は他人をよそおいその場を離れた。

わたしは、酔ってタクシーで支払いを済ませ「ご馳走さん!」とお礼を言ってしまった。

廃材獲得に思う

月曜日の配達をおわり、農園に戻る途中のパレット工場横に廃材ふた山を見つけた。見に行くとわりと新しい廃材にたくさん釘がある。もうひと山はほぼ腐った廃材。火力はまったく期待できない。

急いで農園に戻り、仕事をしていた家内を軽四ダンプに乗せて宝の山に行った。ひと山全部を荷台に積み込み、農園に向けて発車したら廃材取りの軽四トラックが着いた。間髪の差で「よいほう」の廃材を手に入れた。

半年前までは廃材置き場にはいつもあったが、パレットが木材からプラスチックに徐々にかわり、今ごろはほとんど出てこない。地域ではこの廃材を燃料にしている家庭はたくさんある(ホームセンターで薪は、ひとしめ500円以上)。

電線を巻く大型の木製ドラムを扱う業者がお客さまにあり、廃棄する電線ドラムを正志が分解してトラック一杯ほど農園に運んできている。タダで燃料確保の見通しはついている。しかし、パレット工場廃材は長年使っているので火力などわかっている。

「悪いほう」を残し「よいほう」を農園に持ち帰り考えこんだ。
スーパーマーケットでよく目にする嫌な光景。例えば、納豆や牛乳など手を奥にのばして日付の新しい商品をつかむ人。
取られまいと急いで行き、しかも二人で。そして僅差で「よいほう」を獲得した。
納豆や牛乳の客と変わらないわたしだと思った。

母の日曜日

わたしたち夫婦のあらゆる整理と、母の部屋の片付けを毎月一日かけて家内が自宅で奮闘する。きょうがその日曜日。
母の部屋で8時に家内と待ち合わせた。母の朝食を家内が用意して部屋食で母は喜んだ。
小学生低学年のわたしを連れて出雲の母の里に行ったとき、帰りの山陰本線は益田駅で切り離され、ひとつは山口線で小郡駅。ひとつは山陰本線で下関駅。私たちは小郡に向かう車両に乗るべきところ、母とわたしは益田駅で寝ていた。蒸気機関車の汽笛で起きたとき母が慌てた。右手にあってはならない日本海だった。仙崎で美祢線に乗り終点の厚狭駅。それから山陽本線に乗り宇部駅。宇部線で琴芝駅に着いたときは深夜。バスはないから「つばめタクシー」で自宅に戻った。益田駅から自宅まで「すすむちゃんごめんね」を何度も言った。
その母は、あれほど厳格だった金銭感覚も、俳句を詠むこともなく、三度の食事が楽しみの毎日。大正生まれで激動のなかを立派に生き抜き、いま心配のない幸せな境地を生きているのだろう。
先月はわたしが45歳で250キロ歩いた「旬の旅」と「内蒙古の旅」が自宅で見つかった。掃除の会機関誌「清風掃々」も増刊号から手がけて懐かしい資料が出てきた。
きょうのお宝発見は、18年前、屋久島縄文杉に行ったとき、ウィルソン株を背景の一枚が出てきた。とにかく10時間の行程は雨だった。
翌年、松村御大・垣内社長夫妻・上田部長・ハラダヤ社長・東宝映像の膳師さん・監督の石田さん・兵庫県の香山さん・牧くん・宮崎から馬場さん・下関の運送業社長・岐阜から吉見千恵子さん
あと2名は忘れているメンバーを、わたしが道案内で縄文杉ツアーをした。このときは雨はなかった、二日酔いでスタートして御大持参のウィスキー2本を飲みながら歩いた。

午後から農園で忙しく働いた。明朝の予報は氷点下6度。

昼寝90分

昨夜のタイガースは、青春時代に戻れて楽しめた。

今朝の萩行きは氷点下の場所はなく、肩の力をぬいて走れた。
昼前に山口市内で配達がおわり、土曜日恒例の「宝くじ」。ミニロトを千円買った。火曜日の夕方まで一等の夢(一千万円)をみる。

午後から小雨。眠くてしかたがないので昼寝にしたら90分も熟睡できた。
日曜日。いまは録画しないが「たかじんの・そこまで言って委員会」昭和から政界を、ある面牽引された、政治評論家の三宅久之さんの一生懸命が好きで。それと「やしき・たかじん」の本音トークが好きだった。
その「たかじん」追悼番組「そこまで逝って委員会」が午後からあり録画した。
今夜は、その再生で楽しもう。

太郎さん完治

糸賀社長が「読んでみんかね」と約30年前刊行「海軍軍令部(豊田穣)」を貸してくれた。400ページ以上の内容は、目次によると明治に創設された明治海軍から大東亜戦争終結までの海軍の歴史のように思う。読んでみたい。

中国・韓国がいまだに戦争時の日本を責める。南京大虐殺や慰安婦、最近は企業責任まで言及してうんざりする。
けれども、大陸派兵の食料は現地調達が常だったと思う。軍事作戦上重要な兵站が不十分な進軍だった。つまり行く先々の地域の住民から食料品などは搾取、軍票と呼ばれる軍用手形で表向きは買ったことにしている。しかし軍票は金にならない。
貧しい農村で家畜やたくわえた穀物などを盗られたら、とうぜん抗日運動になり住民はゲリラとなる。その住民、あるいは集落ごと日本軍は殺戮する。ベトナムソンミ村のように。
餓死者を多く出したインパール作戦の生還者は、敵の陣地コヒマを陥落させて、そこにある食料を奪いたかった。空腹をみたす戦だったと回想する。敵地目前まで接近したとき退却命令が届き、果てしないジャングルを敗走。おびただしい餓死者にあとから白骨街道よばれた。
食料補給のない戦をした国家の責任は、具体的にやはり謝罪が必要だと思う。兵士に罪はない。

周南市からさきほどもどった。一番気になる太郎さんの傷をみた。見えにくいほど、歯茎からの腫れが破れ、顔に傷ができたおかげで抗生物質を塗り込むことができて一週間。傷も腫れもほぼ完治した。根本的な治療ではないが、これで数ヶ月は大丈夫。パンと牛乳からかたいフードに明朝からもどす。

フルートちゃん

木曜日は小月「レストランうさぎ」が8時。いつも菊川から通う若いシェフが厨房で仕込み「きょう自宅に着くのは何時ですか」休憩をいれながら、ディナーが終わり後始末を済ませて帰れば10時は過ぎます。

下関を終えて菊川を通過している1時。前の車に「フルート吹きが乗っています」のステッカーが目にとまった。菊川とフルートのキーワードは、間違いなくフルートちゃん(掃除のご縁)。
農園ホタルの会や、いろいろ催しをするとき演奏してくれたフルート教室主宰。よそ行きの感じがしたから聞いたら「これからレストランうさぎでランチ」とのこと。彼女は農園日記を読んでおり、わたしが度々話題にあげる「よしの」のファンだとわかった。加奈ちゃんのパンも気にしていたのでパンフレットを渡した。再会の約束で別れた。

小月「しみず茶房」の奥さまが「カフェギャルリ とりのこ(美祢市)」で、来月3日に(内藤加奈 パンを楽しむ講座)がありますよ!と教えてくれた。加奈ちゃんの活躍はうれしい。

「よしの」でも奥さまが(とりのこ)加奈ちゃんを教えてくれた。

明日、金曜日の楽しみは、心まちにしていた「ザ・タイガース2013東京ドーム」がある。今回はフルメンバー。懐かしい歌を聞けばあの頃にタイムスリップできる。BSプレミアム午後9時。

朝参り水曜日

一昨年の12月3日。凍結で自損事故をして車もタマゴも大破。そして昨年のきょう新車(軽四ワンボックス)が納車された。交通違反はあったが事故はなくまる一年。64000キロ走った。

今朝の朝参りはお宮の石段がすべて凍るほど冷え込んだ。
わたしのお礼やお願いの内容に「無事一年走らせていただきました」と御礼申し上げた。
本殿脇の「心の玉手箱」をあけ、今月の一枚を頂戴した。その場で読ませていただいた。
8時に今村夫妻が寒いなか外でわたしを待っていてくださった。競技かるた・日体大「集団行動」など、一週間で感じたお互いの話題を30分立ち話。寒くても野球や相撲に競技かるたの世界で「この人あり」と呼ばれるお二人の生き方を話題のなかからいただける至福のとき。
一枚いただいた「心の玉手箱」ご主人に差し上げた。午後、ご主人からメール「涙がでました」わたしも涙がでた。歳を重ねるとなんででも涙がでる。

わたしと同級生のS路子さんは日本生命の古株。ずっと続けているわたし夫婦の保険内容を変更したいので農園に来てもらった。10数年ぶりの再会。お互い歳相応になったと笑った。

先日、小野田市から来た若夫婦の奥さまは、S路子さんの職場で保険外交をされていた。名刺は「朴」だった。結婚して子育てが終われば職場復帰したいと話していました。

太郎さん。わたしの治療が効いて腫れがひき膿がとまった。ただ過保護にわたしの気持ちがなり、牛乳など特別食でまるまる肥らせた。

はなちゃん命日

報道される、シリアや南スーダンの紛争。それはとても悲惨なことであっても、私も含め多くの日本人は無関心。距離がそうさせるのかもわからない。

きのう、中国からのPM2・5に関する注意喚起情報が行政から一斉配信された。これは身近な問題と受け止める。大陸からの偏西風は山口県に影響がある。

原発反対を唱えたら、いまは良識ある人になれる。近くに原発があり切実に反対の人。なんとなく世間にながされ反対の人もある。

なんとなくと思える人だとわたしが決めるのは。コンビニ・自販機にパチンコなどを減らせばよいと(悪のように)公言する人。
社会全体が電力によりかかり、便利さや快適を追い求めている。
リニア新幹線や伸び放題の線路に道路。電化生活が普及した。
つまり身を削る(不便OK)覚悟をしなければ反対にはならない。

政策をどう転換したら安全な電力で生活が営めるかを、マスコミは力を入れて国民に選択肢を伝える努力をしてほしい。

きょうは愛犬「はなちゃん」2年目の命日。朝、墓に線香を供え手をあわせた。おおきな声で名前を呼んだ。
いま思うと「はなちゃんが息をしていない」と家内が電話をくれたとき「よかった」とも思った。体重が半分以下になり、床擦れで骨が見えるまでになり、その苦痛から解放されたのだろうと思った。

生きる背骨

昨夜の新婚(昨年3月挙式)夫婦を精一杯で祝福する祝いの膳を用意した。
いまは帰化されたが、在日韓国人として結婚のハードルはあっただろう。以前、農園を訪ねては結婚願望が肴になった。ご縁は聞かなかったが「同胞」の気だてのよいあかるい奥さまとゴールできた。結婚式の写真も見せてくれた。民族衣装の正装はなかなかお似合い。
「で、子供は?」と聞いた「7月にうまれました。けれど低酸素で脳に障害があり、酸素器具をつけ医大です。意識もありません」
お祝い気分がブッ飛んで酔いがさめた。
母乳は奥さまが通い、看護婦が与える。それでも体重は平均的に成長している。いろいろ制度を利用しても毎月多額の医療費を支払う。
若い夫婦をなぐさめる言葉がなかった。

今朝、彼から「とてもよい時間でした。また行きます」とメールがあった。若い夫婦が、この出来事を受けても元気な気持ちを出せる「おかげ」がいただけるよう。私の祈りにくわえよう。

牧君が体調不良で療養中と正月のメールで知った。遠慮はいらないから私のところで療養しないかと誘ったが返信はなかった。
17日「来年、神戸の20年。現地で元気に再会しましょう」と出したメールにも返信がなかった。
過酷なマグロ船でも働いた屈強な彼から返信がないから心配していた。さきほど「きょうから職場復帰しました。来年の神戸を楽しみにしています」
短い着信にふかい安堵をした。

生きておるあいだ、たくさんの試練のなかで生きる背骨が強くなる。

母も太郎さんも強い

積雪予報が小雨の朝をむかえた。目が見えにくいまでに歯肉炎が悪化して腫れた太郎さん(19歳ビーグル)。小屋から出したら血と膿が出て顔を汚し、腫れは小さくなった。1年まえも同じ症状で出血した。この傷口に抗生剤塗り薬を毎日つけてよくなった。歯肉炎の治療は、高齢犬に麻酔は危険と獣医に言われ、わたしのオリジナル治療を施す。薬をつけるとき相当痛みがあるようで暴れる。
回復するまでドッグフードは食べにくいからパンと牛乳。缶詰めのやわらかいフードの特別食も用意している。
久しぶりに押し車で母は歩いて食堂を往復した。車椅子ばかりだたから足が萎えてしまったかと思っていたから嬉しかった。
母も太郎さんも、悪くなってから底力がわいてくるようだ。

午後から、豊田町の古民家在住。皮舟大工の肩書き男性と奥さまがタマゴを求めて来園。50代とは思えない若さを感じた。

夕方、小野田市の西山君が「嫁みせ」に来てくれることになった。家内が猪肉料理をはじめた。

ガスはなぜ臭い

農園をはじめるとき、ライフラインの電気、ガス、水道。加えて新聞と電話回線をお願いに行った。
ガスは地域に店がなく美祢市の河村プロパンにわたしが通うことを決めた。
水道は無理だと言われ、数百万円費やして井戸2本を掘った。
新聞は川向こうに新聞入れを設置したら入れてもよいと言われ断った。
電話回線は、電柱をわたしの負担で建てれば回線はつけると言われ断った。
幸い中国電力だけは快く川向こうからコンクリート電柱を3本建てて配電してくれた。

美祢市の河村プロパンに通いはじめ、社員さんが毎月5キロボンベを充填に来るわたしに関心を持ち「どこで生活されていますか」と尋ねられ、農園の生活を話した。それ以後タマゴの注文をされ、数も増えている。

今朝、お湯を沸かしているとプロパンガスの残量が少ない臭いがした。10数年使うと臭いでわかる。
土曜日は河村プロパンの配達。なぜ最後は臭いが変化するのか質問した。
ボンベにはプロパンガスとブタンガスが充填され、2種類の比重が違いブタンガスが重く、最後の臭いはブタンだと教えてもらった。
午後からトイレと風呂掃除。部屋の掃除をしっかりやった。
太郎さんの歯肉炎が悪化。数日で目の下の腫れが破れて膿が出ると思う。その傷口から治療をはじめる。
硬いものは食べられないからパンに牛乳をかけて3枚食べさせた。

神戸の17日

太郎さん顔の化膿が深刻で片方の目が見えにくい。その世話をしながら冷え込んだ5時46分。神戸の方向に手をあわせた。
4ヶ月滞在した、兵庫区浜山小学生避難所。「お手伝いしなければ」と、ご縁のままに行ったが、千数百名が教室や廊下で寒さのなかで食べ物と灯り、寝る場所もなく混乱の中に私も入った。
私は音楽室の利用を許されたが、食べ物と水などみなさんと同様に苦労した。
明確な指揮系統はなく、唯一「運営委員会」という、日頃はうとんじられているような10名近い若者が避難所を腕力で取り仕切った。
しばらくして、この地域の暴力団組長が、京都の病院に入院して受けていた治療をやめて手下を連れて避難所生活をはじめた。
この方の存在はおおきく避難所の治安はよくなった。紙オムツやミルクなど緊急に要るときは親分に頼むとすぐに調達できた。4月、避難所で亡くなられ私と牧君は組葬に参列した。
三田市の香山君にもたくさんお世話になった。
当時は腹が立つようなことが毎日たくさんあったが、19年も経つと忘れた。

忘れていないことは、様々な困難な場面で、困難に負けない勇気を出したふつうの人たちの言動。手のつけられないほど汚れたトイレに向き合った人たち。腐って食べることはできないオニギリを配ったおばちゃん。食べられないから罵声を浴びせた男たちに「つくってくれた人の心を受けとれんのか」と泣きながら叫んだ。その夜、食べるものはなかった。

きょう周南市を走っていたら、当時の仲間から電話「来年のきょうは神戸で必ず会いましょう」「元気に再会しましょう」と答えた。一年さきの元気がよくわからない年齢になった。

ダイヤの指輪

下関市内のタクシー本社は慌ただしかった。タマゴを事務所に運びながら耳にした原因は、お客がタクシーのなかで手袋をはずしたときダイヤの指輪が車内に落ちたようだと連絡があり、その対応だった。

美祢。加奈ちゃんの自宅ではパン教室。次男の慶ちゃんは、先日保育園の遊具から落下して足を骨折。ギブスをつけてお母さんに抱かれて出てきた。加奈ちゃん「心配したけど、骨折のおかげで慶ちゃんのそばに毎日おれるから、これもよかったと思います」彼女らしい前向きな言葉。

「競技かるた」の今村奥さまから

1月20日 月曜日夕方KRYの熱血TVでかるたの放送があります 録画して見てくださいませ

とご案内メールをいただいた。

一枚のハガキ

今朝は氷点下の霧雨。積雪より路面は危ない。アスファルトに水溜まりがあるから普通どおりに走る人がいる。しかし、湿り気の路面は歩けないほど凍てつき滑る。カーブで曲がりきれず2メートル下の田んぼに上手に着地した車。ガードレールに衝突した車を見た。

市町村議会会議録調製を目的に「ぎじろくセンター」を28歳で創業。わたし社長。従業員は家内だけ。わたしが契約して委託された議会録音テープ(当時はオープン・リール)を家内が聞き取り、原稿用紙に鉛筆で文字にする。それを議会事務局に校正に出し朱筆に従い、議会指定用紙に浄書するのが家内の仕事。わたしは実務はできなかった。浄書で間違うと「一字訂正二字挿入」などと足立の印鑑を押していた。
東芝が国産初の日本語ワードプロセッサJW10 を世に出した。定価650万円。削除や挿入が簡単にできて会議録には最適だとビジネスショーで感じたが高価で手が出なかった。半年して富士通がオアシス100を出した350万円。移動中の新幹線で読んだ週刊誌の記事で知った。カタログ請求ハガキもあったから広島駅で投函した。
しばらくして富士通の上田課長(当時・農園日記ミニアルバム先月の人)がカタログを下げて来て「一緒に勉強しませんか」と言った。おそらく山口県では一番初めのオアシスユーザーになった。

上田さんは出来ないことは「出来ません」とはっきり言う誠実な人柄で、あいまいな言葉で営業に来るOA関係の人とは違った。
会議録業界最初にワードプロセッサの製品を世に出し仕事はバブルの時代でもあり黄金時代をむかえた。
そして上田さんは「僕の中学同級生で、唐戸魚市場専務(当時・現会長)という足立さんと気があいそうな男がおるから紹介しましょう」で松村御大とご縁ができた。
昨夜、布団で昔を振り返り。あの一枚のハガキがわたしの人生を変えたことに気がついた。

西君3 年の命日

3年まえのきょうは金曜日。2時ごろ防府市内を走っているとき「西君が川に落ちていた!」と家内から手短な電話を受けた。無事を祈りつつ農園に戻るとき救急車とすれ違った。
山大医学部救命救急室に着いたとき、西君のストレッチャーは横に置かれ、火傷や怪我人の手当てで緊迫していた。だめだと思った。
人が助かる農園をめざして、西君も当初から仲間になり、仕事の手を抜くことはなく冬も夏も働いてくれた。
あの事故から農園の将来は息子の正志が夢をもって考えればよいと、わたしの気持ちは正直一歩後退した。

墓に花を供え手をあわせて思う気持ちは「西君すまんかった」
あの日は小雪が舞う寒さだった。川の中は冷たかったろうと詫びた。

嬉しいメール

月曜日の最初の配達は岡本拓也さん。ご親戚や地域のみなさんにタマゴを広めていただきたくさん届ける。そのタマゴは拓也さんが配達してくださる。
この季節、いつも早くから玄関にストーブをつけて、わたしが寒くないようにして待っておられる。わたしを応援してくださるあたたかさを感じる。

小野田市のお寺。わたしが届ける裏口に利口そうな柴犬がいる。最初のとき吠えないで近寄ったから咬まれるかと思った。そのうちわたしを無視して眠っているようになった。きょう寝ている犬の頭をなでているところを住職が見ておられ「お宅には犬がおるでしょう」この柴は犬が好きな人はわかり受け入れる。反対のときは激しく威嚇するらしい。名前は「団十郎」

黄栄作さんが「顔は恐いがええ青年ですから」と農園に連れてきた趙君。その後、何度も「泊まりに行っていいですか」と連絡をして農園で仕事や結婚のことなど胸のうちを語った。たまに「元気でやっています」と届いていたメールも途絶えていた。
3時ごろメール着信。趙君からだったから車をとめてすぐ読んだ。
嫁を連れていま農園に行きました。また嫁とおじゃまします。
寒さも、疲れもとんでしまう嬉しい便りだった。すぐに「家内の料理と酒はあるから」と返信した。

永遠の0

10時上映開始に、山口市内の仕事を済ませて宇部まで走ることは忙しかった。
15分前に指定席に座れた。映画館にあまりご縁がなく指定席まで係の女性が手をひいたのはおじいさん。後ろが騒がしいので振り返ると、家族に付き添われた車椅子のおじいさん。車椅子の場所がなく係の人が工夫された。わたしの少し前列に小学生らしき少年がひとりで座った。
待望の映画「永遠の0」がはじまった。
しばらく待ってレンタルビデオで観ようかとも思ったが、スクリーンに0式戦闘機が爆音をたてて飛び交う。まるで自分が空母に特攻しているような臨場感はビデオでは味わえない。
原作者の百田尚樹さんが泣きながら書き上げたと言われたラストシーン。涙をふかれる人が多くわたしもそうだった。
上映がおわり出口に向かうとき車椅子の方がハンカチを握っておられた。
「二百三高地」昔の映画だけど、山頂のロシア要塞に突撃だけしか作戦がなく、数年前に長府の乃木神社参拝でこの高地の土が展示されていた。戦のあとも雨がふると山から血が流れた。
磯村千代子先生から聞いた。戦死の通知があり戦後、戦死した兄嫁と弟が所帯をもった。数年して兄が復員して、それを喜ぶどころか家庭はどん底の不幸になった。
宇部空襲の日。わたしの母は焼夷弾の雨の中をあてもなく炎のなかを走った話は、幼いころよく聞いた。母は当時27歳。
沖縄戦没者遺骨収集奉仕に長年参加した。沖縄戦は4月から6月。私たちが収集するご遺骨からは暑さで腐敗した臭いはないが、20数万人の亡骸は凄惨を極めたことだろう。
歴史は血と涙でつづられる一面がある。

映画のあと昼ごはんを食べずに母にあいに行った。昼食で眠くなりまどろんで反応が悪い。

冬タイヤの交換。散髪をして朝食と弁当材料を買いにスーパーに行ったら(家内は法事で里帰り)昼ごはんを食べる時間がなかった。

フラット・ホーム?

朝6時。外気は氷点下1度。天気予報ほど冷え込まなかった。
けれども、萩までの道のり最低気温は氷点下3度。急な下り坂でしかもカーブの橋もある。路肩から半分落ちたトラックの引きあげもあった。
きのう凍結で横滑りが何度もあり緊張したが、今朝も横に何度も滑った。運転技術ではない気がした。タイヤは昨年5千キロ走行して、この12月にもう1度つけたブリザック。見た目のタイヤの山は悪くない。
山口市内のガソリンスタンド(家内のタイヤ購入)で「滑る」と尋ねた。4本とも「フラット・ホーム」という滑りのサインが出ている。雪道を普通タイヤで走っているようなものと言われた。
タイヤの磨耗「スリップ・サイン」は知っていたが、それは知らなかった。
愛車はトヨタでフリーメンテナンス契約をしている。故障・車検・オイル交換など日常整備それにタイヤもサービスになる。
下関トヨタの江口店長に事情を説明して電話を切った。30分して「冬タイヤが入手困難でしたがおさえました。明日の午後2時に小郡の本社で交換できます」

明日は、山口市内の配達を済ませて宇部の映画館まで走り「永遠の0」を観る予定。それから母を訪ねて、散髪に行って午後2時の予定にした。

路面凍結が厳しかった

氷点下2度。農園周囲の山々は雪化粧。6時半にスタートした。
冷え込みは大したことはないが、昨夜の雪で路面は凍てついており、小郡までの峠を下るときは緊張の連続。いつもは40分で着く山口市内のお客さまに、激しい渋滞で1時間半もかかった。
若いときから雪道を走ることは得意だと思っていたが、一昨年の凍結道路の自尊事故で完全に自信を失い、雪道初心者のようだった。
杏といっても連続ドラマの主人公ではない。防府市のお客さま愛犬の「杏ちゃん」。アキレス腱を切断して、人工の腱を手術で入れたが具合が悪く、別の器具を入れる手術をきょう午後からする。獣医さんもタマゴのお客さま。手術前、絶食させられオドオドしている杏ちゃんとしばらく遊んだ。盲目の黒柴「葉月」も元気で安心した。
雪で約1時間近く配達が遅れて、防府市から徳山まで高速道路で移動した。わたしの着くのを待って外出されるお客さまがあれば迷惑をかける。
ほぼ時間どおりに配達を終えた。

総理の靖国神社参拝。あるお客さまが
あれは中・韓を意図的に刺激し、反日をあおり日本国民に多少の危機意識をもたせ。防衛装備品のレベルをあげた。外圧をあえて増長させた総理の意図を感じる。

7億円!うらやましい

宇部で年末ジャンボ1等が出た!しかも前後賞合わせて7億円!

昨年から気になっていたことが現実になった。
喧嘩や自然に死ぬ鶏と生ゴミを、農園はじめて以来ずっと焼却炉で灰にしていた。燃料は近くのパレット工場から出る廃材。タダで持ち帰り電動ノコで刻み重宝していた。
昨年からパレットがプラスチック製品に変わりはじめた。そして年末、積み上げられたパレットはすべてプラスチックになった。廃材はもう出ない。
まだ1ヶ月ぐらい燃やせる廃材はあるが、これからどこで、無料で調達できるかを悩んでいた。
下関には建築関係の知り合いが何人もいる。けれども下関まで薪をとりに継続して通うことは最後の手だと思っていた。
木曜日の最後は美祢の「よしの」。ひらめいた!吉野さん実家は美祢で製材所を営んでいる。なんとか廃材を定期的にもらえるよう頼んでくださいと口添えをお願いした。よい結果になる期待をこめた。

レストラン「うさぎ」の若い料理人。今朝も8時前から仕込みをしていた「よい正月でしたか」と尋ねたら「年末にマイホームが完成しました」早朝から夜中まで、愚痴を言わずに働くたのもしい若者。
明日は周南市の金曜日。すでに大雪注意報が出ている。

冷たい雨の1日

水曜日は宮尾八幡宮参拝ではじまる。
昨夜も外れたミニロトが当たりますように。という願いではなく。1週間のお礼。そして、どんなことが起きても気持ちが萎えないことを願う。
1週間に一度でも、神様に心をむけると背筋がのびる。

正月明けでアルミ缶の回収が大繁盛。きのうもきょうも積み残しが出た。

小野田市内、理容店の奥さまがこの辺では有名な「甘太郎」の大判焼きを買って「レンジして農園の皆さまで」とたくさんいただいた。冷たい雨のなか気持ちがあたたかくなり、神さまありがとうございます。と無言のお礼も申し上げた。

宇部で大きな企業の会長さん。わたしになついているボーダーコリー犬。車を入れたら奥さまが毎回、すぐに出てこられる。それは犬の吠えかたでわたしがわかると教えていただいた。

明日から寒波襲来。運転はとくに気をつけよう。

ミニロトの火曜日

2週間前の年末「このまま動いたらいけません」と、血圧降下剤を処方され約40分で帰宅を許された。
タバコは5年以上やめている。塩分は特に気をつけている。毎日約1時間歩いている。朝食の納豆。3食たくさん野菜を食べている。
悪いと思うのは酒。それと1年以上、毎日2杯は飲むセブンイレブンのコーヒー。

コーヒーは眠気がどうにもならないときだけにした。酒は以前の半分(完全禁酒は寝付けない)にした。

それと、朝4時に必ず降圧剤を飲む。6時には安定しているから、今朝も配達前にしっかり歩いた。

火曜日は山口市内。糸賀社長がコーヒーをたてて待ってくださった。配達先のみなさん、なんとなく正月太りの印象を受けた。松村御大と中学同級生、石材店の奥さん「初セリで松村クンがテレビで見られないから残念」と。

今夜はミニロト宝くじの発表がある。みずほ銀行にこれからアクセス。当たりますように!

心ゆたかに月曜日

年末から変則的な仕事になっていたが、きょうから判でついたような、仕事がスタートした。一昨年の年末、凍結道路で自損事故をしたようなことがない、変わりのない平穏な仕事を続けることが、わたしはありがたい。

於福の木工所。事務所には若い奥さま。いつも「来週もおいしいタマゴをお願いします」と頭を下げられる。仕事はじめの今朝も同じ言葉をかけていただき嬉しかった。

美祢市の奥さま。毎年初めての配達には下関の銘菓をお年賀でいただく。

新年のご挨拶ができないお宅でも、わたし宛の短いメッセージが置かれていた。

小杉のばあちゃんは、回復してよく肥えた猫を抱えてわたしを待ってくれた。

心ゆたかに月曜日を終えた。

母が教えてくれる

調子の良し悪しが日によって大きく起伏する。今朝の母は自分の世界から出ることができない。わたしと会話が弾まなかった。
帰りぎわに手を握ったらジャムをつけていたのでタオルを絞って拭いた。

母が老いたようすを見て、遠くない将来わたしもそうなることを受け入れる心持ちになれた。身をもって教えてくれる。

農園全体は広すぎてできなかったが、遅まきながら鶏舎をふくめて最低限イノシンが入らないように漁網を張りめぐらした。その網の内側、イノシンがミミズをもとめて掘り返した場所を、午後からユンボで丁寧に整地をはじめた。とても短期間には終わらないが、春までに整地しないと草刈りができない。

明日から平常の仕事に戻れる。正月さよならの天宿温泉で身体を癒した。

萩市〜小郡ウォーク

2日の下関行き。納品を済ませて松村御大ご自宅に、新年ご挨拶にうかがった。
昨年11月の株主総会で社長職から会長になられた。
下関市認定三冠王(自転車・マラソン・ウォーク)の立派なメダルを拝見した。
今年は6月。益田市から広島市まで、中国山脈越え100キロウォークに挑戦する目標設定ができておられた。
わたしもご一緒できればよいけれど、30時間のレースと前後の時間をとることは、まだ農園の体制ではむつかしい。しかし、わたしもむつかしいことに挑戦したいと考えはじめた。
今朝の萩市行きは冷えていたものの、路面は乾燥しているから楽に走ることができた。高校生のとき、なにかの団体が催した小郡駅から東萩駅までのナイトウォークに参加したことを思い出した。
その距離がどれだけあるかは知らないが、夕方、バスで萩市まで行き一泊。早朝から小郡駅を目指して歩くことを決めた。これから足を鍛練して秋ごろにやろう。
土曜日は宝くじ。ロト6は当たる気がしなくなり、一等賞金一千万円の「ミニロト」に宗旨がえをした。今回の発表は7日夕方!
昨年、全国縦断した平原綾香コンサートのファイナルが午後からあった。今夜は再生で楽しめる。

タマゴ満載で走り終えた

年間で一番数多くのタマゴを載せる正月3日。下関市から美祢市まで配り終えて、わたしの正月おおきな仕事が済んだ。
美祢市「よしの」は、明日が仕事初め。ご夫婦で仕込みをあわただしくされていた。主人の勘と統計では「明日の来店はピークに達します」小麦粉をかたちにして、それがお客に支持される「技」は大したもの。
縁起の「大入袋」を浪花の荒川大将から今年も頂戴した。母に届けて喜ばせたい。

母が長生きをしてくれ、老いを重ねる姿をわたしに教えてくれている。毎月生きていく費用もよくわかった。これから、その道を歩むわたしの目印をつけていると思うようになった。

酒飲んで昼寝

大丸百貨店は10時が初売り。駐車場に入る長蛇の車が想像され、くわえて赤間神宮に亀山八幡宮。海響館(水族館)と混雑ポイントが周辺にある。
8時半に納品して混雑前に下関を離れる計画で動いた。荷受け場はわたしと同じであろう早めに大丸百貨店を出たいトラックが駐車スペースをうめ、Tシャツ姿のドライバーが汗をかいて荷物を運んでいる。

下関から豊田をまわり俵山経由で長門市の大谷山荘。ここもバックヤードは忙しさの頂点のようだった。

お昼すぎに農園にもどり日本酒コップ酒でお正月。
快晴を利用して屋根に布団を並べたころ酔いがまわり1時間の昼寝。

明日は、早朝から山口市の配達。いったん農園にもどり、午後1時に浪花お届け初荷。彦島の個人宅を数軒配達して、南風泊の唐戸魚市場が4日早朝の初セリで関係者に配る「お年玉子」を約2千個搬入がある。
明日からは昼間の酒は飲めない。

ゆったり元旦

母に届けるおせちを早朝から家内は用意。施設のみなさん朝食前に着いた。母は元旦がわかっていたのか化粧バッチリ。
電子レンジを借りてあたたかい雑煮もできた。種類が多くとても満足し箸がすすんだ「このイラクは美味しい」と「イクラ」をまちがえて爆笑になった。デザートの干し柿まで食べてくれた。家内が入れ歯を洗って朝食は終わった。

山口市内で一件配達を済ませ農園に戻る途中。約7キロ手前でわたしは降りて1時間かけて歩いて農園に戻った。

昼ごはんにコップ1杯半の冷や酒。これで元旦気分。みなさんは仕事をしていたが布団を敷いて3時間半も昼寝ができた。

加奈ちゃんから年始メール。今朝の山口新聞3段抜きで「パンを通じて笑顔増やす」のタイトルで加奈ちゃん写真入りで紹介記事。これは連載だと思う。この新聞画像が添付されていた。

明日の大丸百貨店初荷からわたしの仕事はスタート。